山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ニュータウンの青春」

先週、森岡龍くんの監督作品、「ニュータウンの青春」を見てきました。

まず、普通に面白かった。

“普通に面白い”って言い方は一見失礼な褒め方のようですが、そうじゃなくて、一見、この映画、笑いあり、せつない恋ありの、いわゆる王道青春映画に見えるので、そのような意味で充分面白い、という意味です。

けど。

実はこの映画は、笑いあり恋ありの青春映画のカテゴリーに入れてしまうのはもったいないものをはらんでいると思ったんです。

それはこの作品が笑いに彩られているにもかかわらず、通底音のように、ある種の残酷さを見せているからです。

監督がそれを意図したのかどうかわからないですが、ちょっとアホな10代の少年たちの友情を描いているようで、同時に、彼らが生きる場所や時代の持つ、どうしようもなく逃れられないもの、をあぶり出してしまっているからです。

タイトルにニュータウンとあるように、主人公の男子高校生カズカズはニュータウンに住んでいる。高層マンションの建ち並ぶ新しい街です。

カズカズがよく遊んでいるのは同級生の豪一と2歳年上の先輩・飯田さん。飯田さんはすでに卒業しているのに、進学もせず、職にもつかずにふらふらしている。そして、豪一と飯田さんはニュータウンとは川で隔てられた旧市街に住んでいる。さびれた商店街のスナックの息子とラーメン屋のせがれです。

ニュータウンと旧市街というちがう環境。それは小さな違いのように見えて、いずれ彼らが別れていくことを決定づけています。漠然としていた格差がはっきりしていくわけです。

映画は、その過程を描いている…ともいえて、他愛ない片思いを廻る騒動が、なにか「越えてはいけないもの」を見せてしまう。その部分にしびれました。

3人は富永さんという年上の美しい女性に憧れています。彼女に気に入られようとあれこれと動き廻るわけですが、それがあほらしくて、ドタバタ喜劇で楽しいんです。が、決してそれだけで終わらせない。

憧れの女性の部屋に三人で入りこんだ瞬間に、それまで積み上げてきた、他愛ない青春モノの壁がふっ飛ぶ。開けてはいけない扉を開けてしまう。その飛躍にがつんと来ました。

だから、「友情っていいよね、恋っていいよね」ってタイプの切ない青春映画などではない。

それまで、自分と大差ないと思っていた友人が自分とは決定的にちがうということを知る。しかもその違いが常軌をいつした、決して埋められないものであることを見せてしまう。その怖さ。

とても恐かった。

そこから一気に加速して、三人がそれぞれ別の道を歩む未来を痛いほど予感させながら、映画は終わっていくのですが、その別れの苦さがとてもよかった。

お調子者でありえない嘘ばかりつく、無職の飯田先輩が、主人公の前から去って行くラストシーンが美しかった。美しいというか、本当に川を渡って違う世界へ行ってしまう感じが、じんわりと描かれていました。

そこで見えてくるのは、飯田先輩があゆむだろう、暗雲立ちこめた未来。

そういう未来を生きるしかない、救いようのなさを残酷にとらえている。飯田先輩個人の話がその瞬間、普遍化する。別の世界を生きる人への冷徹な視線を感じる。いや、愛情は籠もっているのに、同時に冷静なんだ。

そこがね、とてもいい。

その残酷さにしびれました。