山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

「卒業写真」を久しぶりに聞いて。

卒業式のシーズンだったせいか、最近、よく、荒井由実(松任谷由実)の「卒業写真」がラジオから流れてきた。

しみじみと名曲であるけれども、いまさら、気づいたことがあった。

初めて聞いたのは30年近く前だろうに、これまで1度もそのような視点にたって聞いたことはなかったのだ。

歌詞の内容は、学生時代に友達か恋人であったひとがいたが、その後別れてしまい、なにかあると卒業アルバムをめくってそのひとを思い出す…というものである。

アルバムのなかのそのひとを見て、卒業後、変わってしまった自分にあらためて気づき、そのひとに、遠くからしかってほしい…と願う歌である。

(著作権に触れそうだから、歌詞を引用できないのでじれったいですが…)

学生のころは、あんなに輝いていたのに(何に対してかはひとそれぞれということで)、社会に出てからは、すっかり変わってしまい、ちょっとずつスレていく自分と、その対称にある、かつての友である「あなた」。

この「あなた」は今も変わらないのである。

たとえば、学生運動をやっていたひとが就職するとか、演劇やってたけど、サラリーマンになる…など、学生の頃の理想を追うひとと、違う道を選ぶひとはいつの時代にもいるだろう。

これは、「学生時代の理想を選ばなかったひと」の歌である。

普通のサラリーマンになったり、主婦になったりしたひとが、昔を懐かしむ歌だ。

つづいて、もう一曲。「悲しいほどお天気」というのがある。

こちらは、美大などで絵画をともに学んでいた友への歌である。(たぶん)

友から個展の案内が来る。友は画家になるという理想を貫いているのだ。

一方の自分は、「臆病」だったゆえ、「平凡」に生きていってるらしい。

昔の友達から届いた個展の案内状を見て、友との距離を思い、友の絵画の空が澄み渡っていた(悲しいほどお天気)ことを歌っている。

どちらも痛烈に切ない歌である。

誰もが自分の若い頃の理想を貫かなかった痛みを持っている。そのあたりをビシビシついてくる。

で、これまでは普通に酔いしれて聞いていたのだが、今頃になってはっと気づいた。

この曲を書いている松任谷由実氏は、「描かれる側」の人のはずじゃないのか。

人混みに流されて変わることなく、自分の歌を歌いつづけ、個展ではないが、コンサートの案内状を友人に送ることもできるだろう。

決して、臆病じゃなく、平凡じゃない人生を歩んだ人だ。

けど、描いているのは、「平凡側」の人。平凡側の視点に立って書いている。

平凡側じゃないのに、平凡側の気持ちがわかるのか…。

いや、わかるのだろう。

もし、自分が理想を貫かなかったら、どう感じたかを想像することができるんだろう。

もし、これが、逆の立場に身を置いたひとの歌だったらどうだろう。

卒業写真の友達は、普通の人生を歩んでいる。でも、自分は違う道を行ってます…とか。

個展の案内を普通の主婦やってる友達に出した。もう会うことはないけど…みたいな。

いや、しかし、これはこれでアリなのかもしれない。

が、その場合、普通を選ばなかったから苦労してます…というストーリーにしないと、聞いているひとは納得しないというか、不快なだけだろう。

ともかく。

「卒業写真」にしろ「悲しいほどお天気」にしろ、歌詞で主体となる側の人間のほうが、圧倒的に多数だろうってことだ。

たいていのひとは社会に出て、変わっていき、個展を開いたりするひとは少数派で、平凡な人生を選ぶ。

圧倒的に多数。つまり、共感を呼ぶ。

あー。そうか、そこか、共感。

「わかる~」みたいに聞いてても、書いてる側はこっちのひとではないということ。

どこまでそういった計算のもとにつくられているかはわからないけど、自分と違う立場に身を置いて、想像してみる…ってことは、創作にはとても大事なんだ、ってことをあらためて気づいたんです。

おせーよって気もしますが。

いやしかし、もちろん、これまでやってきたいくつかの仕事で、自分とは違う立場の主人公を書いたことだってあったのだ。

が。少なくとも自分は、自分まんま方向で描いた方がうまくゆき、想像で書くとあんまりうまくいかなかったんだよなー。

つまり、違う立場になりきっても、共感を呼べるってことが、才ってことかしら。

なんてところに行き着いたり。

いや、とにかく、この歌詞に秘められたものにあらためて気づいたので書き留めておきたかったということでした。