ここのところ見た映画をまずは列挙。
「愛、アムール」(m、ハネケ監督)、
「日本の夜と霧」「青春残酷物語」「愛と希望の街」(大島渚監督)、
「彼女を見ればわかること」(ロドリコ・ガルシア監督)。
…かなり骨太のラインナップだなー。
大島渚監督については、葬儀以来、見続けていて、その力強さに打ち震えていました。
他の2作、「愛、アムール」と「彼女を見ればわかること」には共通点があります。
それは、控えめ…というか、おさえた演出と、まるでドキュメンタリーかと見紛うような作り方。
あえて、ドラマチックなシーンを作らない…という作法です。
ハリウッドのよく出来た物語も好きですが、このような冷徹な感じの演出もまた、好きであります。
で、「汚れなき祈り」です。
いやー。すごいな、この監督はやっぱり。
ここ最近みた中でダントツの力。ゆるぎなさ。
「4ヶ月、三週と二日」でルーマニアで初めてのパルムドールを獲得したクリスティン・ムンジウ監督の作品です。
2005年に実際にルーマニアで起きた事件を描いています。
以下、ネタばれがあるかどうかわかりません。
ネタばれという言葉も嫌いだし、ストーリーが全部わかっても尚面白いかどうかが大事だし、私は、好きにこのブログを書いているので、ネタばれしないでくださいと言われても聞きません。…ということを書いておきます。
(見ず知らずの人に書く内容について指示をうける覚えはないので)
主人公は孤児院で育った二人の女性ヴァオイキッツアとアリーナ(25歳)。孤児院を出た後、アリーナはドイツに働きに行き、ヴォオイキッッアは、地元の修道院に入って修道女になりました。
アリーナはドイツでの仕事がつらくて淋しい、ということで、幼なじみの修道女・ヴァオイキッツアに会いにくるところから映画は始まります。
アリーナはヴォイキッツアに一緒にドイツに行ってほしいと頼みますが、神父に反対されて叶いません。しぶしぶと修道院で過ごすアリーナですが、精神的にかなり追い詰められていて、騒動ばかり起こします。
一方の修道女・ヴォイキッツアはすっかり地味な修道院の生活に慣れ、神様を信じて、修行に励んでいるわけです。
外の世界で親友と暮らしたいアリーナと信仰を捨てられないヴォイキッツア。アリーナの精神はどんどん追いつめられていきます。ともに孤児院育ち、ということで、二人には特別なキズナがあったようなんですね。
で、アリーナは発作を起こし、病院に入院したり、里親の元に戻ったりしますが、どこでもうまくいかない。
かといって、他に帰れる場所もない。
神父は、アリーナが騒動を起こす度に出て行ってくれというのですが、行く当てのない彼女は留まるしかない。
2005年にあって、電気も通らず、井戸から水をくむような中世のような生活をしているんです、この修道院。
行く当てのないアリーナはますますおかしくなっていき、仕方なく、神父たちはある宗教的儀式を執り行い、結果、悲劇が起こる…というストーリーです。
このようなあらすじだと、閉鎖的な修道院という場所で起こる、異様な出来事…を想像しがちです。
「宗教」と聞いた途端に「カルト」を想像し、宗教の名の下に、非常にエロティックなことを行ったり、血なまぐさい残酷な事件を描きがちです。そういうタイプの映画、いくつも挙げることができますよね。
but!
この映画はそういうことをいっさいしません。実際に起こった出来事をおもしろおかしく、ドラマチックに、暴力とセックスで描く方法を好む監督も観客もいるのをよく知ってますが、それをいっさいしていません。
なぜなら、多分、この監督はこの事件とはなんだったのか、をまっこうから考えようとしているからだと思います。
安易な犯人捜しをしない。誰も裁かない。
あっぱれな演出です。
これを見ていると、最後の悲劇を引き起こした責任は誰にあるのか、簡単に問うことはできないことがわかります。そして、他にいったい、どんな方法があったというのだ…という気持ちにもなります。
タイトルの「汚れなき祈り」は、まったくそれを表していると思います。
カルト宗教の神父や信者が引き起こした異様な事件…じゃないんです。
この事件から見えてくるのは、ルーマニアという国の現状であり、身寄りのない孤児であり、精神を病み、お金もなく、行く当てのない者の姿なんですね。そのことを過不足なく描いている。
ふくらませたり、怖がらせたりするために、いくらでも過度な演出ができる余地のある話です。
幼なじみの二人には同性愛めいた部分があったようなんですが、それを描いたりしません。
神父は元サッカー選手の30代の男性です。修道女は若い女性ばかり。ここでもいくらでもエロスを描くことはできたはず。でもしない。
そういう安手の演出をしないせいで、事件の本質がよりくっきりと見えてくる仕掛けになっている。それがすばらしいなあと思いました。
作法としては、「ゼロ・ダーク・サーティー」と似ています。
最近、実際にあった事件を描くときの演出方法について考えているので、とても刺激を受けました。
自分が実際にあった事件を描くときには、その事件の本質とはなんだったのか、について、真摯に向き合えるような作品にしたいと強く思いました。
その事件のセンセーショナルな部分だけを取り上げ、ふくらまして、作品にするようなのはイヤだ。
それはその事件を「使う」だけなんですよね。それを使って面白がろうとするのはイヤだ。下品だ。
だってそうじゃなければ、犠牲者に失礼だし、事件を消費することになる。
それはイヤだ。
この映画は、本質に向き合うのだ、という意志を感じる映画でした。