山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「サルトルとボーヴォワール」



(散歩から戻り、エレベーターを待つ犬・記事と本文は関係ありません)

今日は、WOWOWで録画してあった映画「サルトルとボーヴォワール」を見ました。

ちょっととりとめのない作りでした。



(エレベーターがいつ到着するか気にする犬ら。記事と本文は関係ありません)

サルトルとボーヴォワールというより、ボーヴォワール、その後ろや横にサルトル、って感じで、ボーヴォワールという女性の苦悩というか、人生を中心に描いていて、その陰にいつもチラチラとサルトルがいらっしゃる。

主人公のボーヴォワールは、なかなかに魅力的なんですが、演出のせいか、俳優のせいか、サルトルがちっとも魅力的に見えない。

えらそーで傲慢で、見た目もぱっとしなくて、コンプレックスのかたまりに見える。

節操のない女好きで、功名心が強く、自分勝手。

どこがいいんだよ、ボーヴォワール?ってゆさぶって、聞きたくなるほどでした。

これをもって、「サルトルってつまんない男だったのね」って解釈してはいけません。

これはつまり、監督の解釈ですよね。彼にはそう見えた。ボーヴォワールとサルトルの関係を描こうとしたときに、どうしてもボーヴォワールが被害者で振り回されてて、かわいそーという視点にたってしまった。

真相は誰にもわからない。本人たちにとってだって、関係における真実というものはないでしょう。

「中立的」である、というのは結局のところ幻想で、中立ってないんですよね、実際は。

で、この監督にとっては、複数の愛人を持つサルトルは、「なんかやな奴」に思え、そのサルトルに振り回されつつ、付き合うボーヴォワールは、「かわいそうな女」に見えたってことだと思う。

だから、そのように描いた。

「第二の性」を書き、女性初の哲学者として、注目を集めたボーヴォワールを、「でも、女としてはちょっと不幸せだったんだよ」って描きたかったのか。

それこそ、ボーヴォワールが、墓石の下で地団駄踏んで悔しがりそうな解釈じゃないかと。

アラフォーになったボーヴォワールはアメリカで知りあった、オルグレンという作家に初めてオーガズムを感じ、結婚指輪を贈られ、サルトルに別れを告げる。

それでも、ボーヴォワールはサルトルと一緒に仕事を室着け、サルトルの隣の墓に眠っている。

けど、オルグレンからもらった指輪をしたままだったそうです。

なんていうか、全然アリです、こういうの。

どこにしぼって描くかがうまくいってなかった気がする。

なにより、サルトルをもう少し魅力的に描かないと、ボーヴォワールの気持ちにのって映画を見ることができないと思う。

作家の魅力は著作だから、たたずまいが魅力的である必要はないのだろうけど、それでも、書くモノだけじゃないでしょう、つきあっていたわけだし。

ここらへんをもっとうまくできなかったのかなーと思った次第です。

その他、数日前に「ヒューゴの不思議な冒険」も録画で見ました。

「ニュースルーム」(テレビドラマ)で、敏腕プロデューサー役をやっている、エミリー・モティマーが大人しいお嬢さん役で、意外でした。

マーティン・スコセッジってなんでも撮れるんだなーと思いました。