山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

ドキュメンタリーの悩みぐじぐじ。

昨日、ひとつ番組のオンエアが終わって、じくじくしているところですが、今更、ドキュメンタリーってどうあるべきかについて、悩んでしまっている。

どうあるべき、なんて、決まりはなくて、自分がよしと思うものを作ったら、よろし、ということなんですが、じゃ、自分がどうしたいのか、というのもなかなか悩ましい。

というのも、ドキュメンタリーと構成について考えこんでしまったからだ。

テレビでは、ドキュメンタリーを撮る時、まず、構成案を書く。これをもとに企画が通ったり、通らなかったりする。

通ればゴーだし、通らないと番組にならないから、諦めるか、自主映画にするか、構成を直すか、という選択となる。

長くやっているので、だいたい、「通る構成」を書くことができるようになってはいる。

そして、その構成を意識しながら撮影して、仕上げていくわけだ。

で、だいたい、それはそれなりにできる自信はある。

けれども昨今、この「構成ありき」に対するアレルギーができつつあった。

ドキュメンタリーなんだから、構成ありきってそもそもおかしいんじゃないか。どうなるかわからないから面白いんじゃないか、なんて考えるようになった。

けれども、なかなかテレビでそれを実現することは難しいので、「捨て犬」問題については、とりあえず、気になったものを撮っていく、という方法で始めた。

撮り始めて2年半。素材はどんどん増えて、正直、どうしていいのかわからなくなっている。

もちろん、ここで、構成をたてて、編集していけばいいので、それはそれでいいんだけど、やっぱり、漠然と撮り始めると、漠然としたものができあがるような気がしている。

いや、事実なんて、漠然としたものであって、漠然としたものを受け取るのがドキュメンタリーである、と考えることもできる。

あるいは、編集段階できちっと頑張れば、ある種のテーマに到達出来るような気もする。

ようは編集次第とはいえる。

この夏、読んだ本に想田和弘氏の「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」があり、かなり面白く、共感しながら読んだ。

想田氏は、ニューヨークでNHKの番組を作っていて、やはり、この「構成ありき」に疑問を持ち、テレビの世界を離れて、「観察映画」というジャンルに挑戦している方である。

ナレーションなし、テロップなし、説明なしで、ひたすら、対象を観察するように撮ったものが、並べられていく。

「演劇2」を拝見したけど、この手法だと、よほどじっくり見ていないと、いろんなことがわからなくなる。
え?このひと誰だっけ?あれ、ここはどこなんだ?みたいなことを感じながら見ることになる。

しかし、ある種、現実の再体験に近くなる。わかりやすい感動はなく、なんとなく、漠然としたまま、終わる。

けれども、このような、ある種上品な作風に惹かれたわけである。

お客さまを飽きさせないための、手練手管に疲れてもいたのだ。

いや、しかし。

やっぱり、構成必要だなーとしみじみ思ったんです。

ぶれちゃって。

撮影時にも編集時にも、「こうありたい」感じを作り手が持たないと。

いや、持ってたつもりだったが。

くどくどとすみません。

現在、深く深く反省中で。

そして、ホントにちょっとでも気を抜いたらおしまいだということ。

ほんのちょっとのほころびから、どんどん大事なものが流れ出ていって、壊れてしまう。

番組ひとつ作るのも細心の注意が必要なのだ。

わかっていたはずなのに、なぜ。

これから、もっと心して、いきたいと思っております。