渋谷、ユーロスペースにて、映画「おクジラさま ふたつの正義の物語」を見て来ました。
アカデミー賞を受賞した「ザ・コーブ」で、俄然注目を集めることになった、日本のくじら漁。
和歌山県の太地町では、くじらの追い込み漁の歴史が400年近くある。
町には、いたるところにクジラのモチーフが飾られている。
太地町では、イルカのことも、クジラと呼ぶと説明がある。今、もっぱら獲っているのは、イルカだ。
「ザ・コーブ」以来、町には、シーシェパードなど、くじら漁に反対する動物保護団体の人たちが海外(主にアメリカ)から、数多くやってくる。
それを取材するメディアもわんさか。
そこにあるのは、動物保護団体 vs 地元の漁師さんの構図。
「ザ・コーブ」は見ていないが、「ザ・コーブ」は動物保護団体よりの視点で描かれていたと思う。
「おクジラさま」はどちらの立場にも立たず、状況を淡々と描写していく。
監督として、どちらの立場にも立たない、ということだろう。
とはいえ、漁師さんたちの立場を紹介しょうという気持ちは伝わってくる。
一方的に、イルカを殺す悪者にされてしまっては、いけない…という気持ちだ。
もし、彼らが捕まえているのが、カツオや鮭なら、誰からも怒られなかっただろう。
彼らだって、イルカやクジラが憎くて、捕まえて食べているわけじゃない。
たまたま、その地に…その海には、イルカやクジラがいたのだ。
彼らにとって、イルカやクジラは生きるため、食べるためになくてはならない存在だったのだ。
とはいえ、
世界は広く、イルカやクジラを愛するひともいる。
彼らにとっては、友達のような存在を、食べるためとはいえ、命を奪うのは許せない、と思うだろう。
そちらの気持ちもわかる。
世界がつながって、世界は狭くなった。
今までなら、自分たちの場所のルールでやってこれたことが、突然、批判にさらされる。
恐ろしいことではある。
が。
世界にはイルカを愛するひとがいること、それを痛みに思うひとがいることを知るのは、そんなに悪いことではないのではないか。
思ってもみなかった視点の発見。
もしかしたら、イルカ漁をしながら、「イルカ、かわいいな、かわいそうだな」って思った漁師さんもいたかもしれない。
自分は犬が好きで、犬が殺されないために映画を撮ったり、テレビ番組を作ったり、本を書いたりしている。
けど、常に、「犬だけが特別なのか」と自問自答している。
牛や豚や鶏はいいのかよ。
ゴキブリは殺してもいいのか。
犬は特別と思うのは、私の趣味にすぎない。
それをわかった上で、でも、やっぱり、犬は殺さないでほしいと思う。
できれば、その他の動物も殺さずに生きていきたい。
けど、食べるために、生きものを犠牲にしなくてはいけないのは、生きものの常だ。
犬に鶏肉を与えるたびに、この鶏も生きたかったろうに、と思う。
私も時々、肉を食べる。
だから、生きるために食べるために、動物を殺すことを私は批難できない。
遊びのためや、邪魔だからという理由で殺すことは、あってはいけないけど。
映画のなかで気になったことがふたつ。
シーシェパードの人が、漁師さんたちに提案する。
「今、捕まえたイルカたちを買い取る。いくらなら、買い取れるか。その金額を寄付で集めるから」
みたいなことを言う。
すると、漁師さんは、「自分たちで稼いだお金ならともかく、寄付で集めたお金で買い取ろうなんて…」というような答えをだす。
自分で稼いたお金ならよくて、寄付はダメなのか?
イギリスやドイツ、アメリカなどでも、動物保護は寄付で成り立っていることが多い。
だから、寄付で集めたお金で、動物の命を救うことは、特別なことじゃない。
このあたりの考え方は、日本では行き渡っていないと思う。
寄付やクラウドファンディングに対する違和感のようなもの。
自分で稼いたお金でしか、動物保護ができないとしたら、動物は全然救われなくなってしまう。
寄付に対する考え方が変わっていけばいいと思う。
もうひとつは、太地町でとっているイルカは絶滅の危機にある種類ではないということ。
それよりも、この「太地町」という人口3000人の小さな町のほうが、絶滅の可能性があるのでは…という視点だ。
イルカやクジラの命を守るために、その地に暮らすヒトを犠牲にしていいのか、ということ。
町そのものが消失しますよ…と。
胸に迫り来るものがありました。