山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

自分ルール

お正月がゆっくり終わって行く。
といっても、本当は始まりもなにも、メディアとお店以外でじっくりお正月を感じたりしないんだけど。

普通通りにしていても、店が休み以外はなんの問題もない。ここらあたりが、いつも思うことだけど「どこまでやるか」ってもはや選択の領域になっていること。

昔だったらーこの時の昔っていつくらいまでをさすのかな、漠然と80年代のバブル以前くらいで考えてるーまだ、日本中が「経済」という物差し以外で動いていた頃。

いろんな祭事が、実体験として残っていた頃だったら、お正月には、おせち料理とお雑煮食べて、年賀状を出して・・というだいたいの決まりごとがあって、なんとなく守られていたと思う。家族だの親戚だの、近所のひとたちの目みたいなもの(必ずしも悪い視線じゃなくて)があって、足並をそろえる感覚があったと思う。

けど、たぶん、80年頃からそういうものは壊れ始めた。好きにしていい文化。

実は私もその文化に乗って、今じゃあもう、そういうしきたりからすっかり自由な場所にいる。昨年は父親が亡くなったが、その葬儀にしたって、かなり「自由度」が高かった。うちは女キョウダイばかりだけど、挨拶やらなんやらを「女」がやってもいいよねーということで、ほとんど姉妹ですませた。それに対して、一族の代表が『女』じゃまずいよ、という人はもはや誰もいなかった。

そういう流れは悪くもないと思いつつ、じゃあ、どこまで好きにやっていいのか、ということになる。
例えば、年末、「喪中のための年賀の挨拶は・・』ってハガキを、母親は作って出していたようだが、自分はついつい省略してしまった。ひとつには、11月に本が出たり、12月に見てもらいたい番組があったりで、そのためのハガキを送ってしまっていたから。

同じ人物から一週間もたたないで、またハガキもらうのものナンでしょ、という気持ちと、また、ハガキ書くのか~という私の気持ちで、省略した。それにそういうハガキを出してしまうと、お正月の楽しみのひとつである、「年賀状をいただく」ができないので、残念だなという思いもあった。
こうして年賀状を例年通りたっぷりもらって、楽しいな~と思いつつ、それを誰にも批難されることもない。頂いた年賀状には、返事を書くのが大好きなので(だいたい、手紙を書くのが好きなものだから)返事書きたいけど、さすがに普通の年賀状は出せない。これだって、普通通りに出したところで、誰にも怒られはしないだろう。

おかですべては自分で決めなくっちゃいけない。自分のなかの倫理というか。けど、なんかこう、そういうことの「ずれ」というか「あいまいさ」がこれからますます壊れると、どうなっていくのだろうと思ったりもする。言葉も倫理も移り変わるものではあるけど、なんかちょっと。今のところすべての指標が『経済的に○か×か」になっているのが、やっぱりちょっといや。

そんなことを考えつつ、年賀状のお返事は、「寒中お見舞い~」で始めることにしようと自分ルールを決めるのであった。トホ。