山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

正論の限界

昨日は、睡眠時間がめちゃめちゃだったため、あまりまともなことが考えられなかった。が、実はずっと気になっていて、書きたいことがあったのだった。

それは、一昨日に見た芝居自転車キンクリートの「29時」について。というか、これをきっかけに考えたことである。「29時」は、前に書いたように、40代半ばのバージン女性が主人公である。彼女は、それまで、異性とつきあったことがない。ところが、片思いをしていた男が結婚するとわかり、いよいよ気分的に追い詰められる。物語は、そんな状態の彼女にかかわる3人の男たちとの一夜のお話である。

物語の詳細はいろいろあるけど、最後に、彼女は、長年の友達だった男友達に勧められ、まさに結婚式を挙げようとしている男に「告白」しに行くというところで幕を閉じる。これまでできなかった、「告白」をいっそやってみよう…ということである。これは芝居の結末であるし、こういう解決もあると思う。だけど、なんか、ずっとひっかかっていた。

彼女はこれまで男性とつきあったことがない。でも、「好き」になったことはある。が、好きになっても相手にされないだろうと思って、告白もせず、今日まで来てしまった…というのである。もし、自分が彼女の友達だったら、やはり、『好き」と告白するところから始めたら?と言ってしまいそうである。好きになったら、それを伝えてみる。そこからしか始まらない…みたいなことを考えていた。
が。

本当にそうなんだろうか。それはまさしく『正論」なのだ。確かに、好きという気持ちを伝えなければ、なにも始まらないし、なにも変わらない。が、伝えたところで、玉砕する可能性の方が高いのがほとんどの場合の事実だ。だとすると、「告白しなよ」ということは、正論だけど、あんまり意味がないのかもしれない。なぜなら、彼女は40年に渡って、「その方法ではダメだ」ってことを身をもって知っているのだ、多分。それは、よく言われるように、「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃないの」的なアドバイスなのではないかと、気づいたのだ。おめでたいアドバイス。

普通の恋愛→結婚という流れは、一般的に言えば、「パン」である。が、彼女(「29時」の主人公)にとっては、パンではない。普通のひとが普通に食べられるとされている、パンが食べられない!と叫んでいるのだ。その彼女に向かって、これから結婚しようとしている男に告白せよというのは、「じゃ、ケーキ食べれば?」というのに等しい。いきなり映画「卒業」のようなことは起こりっこない。

だから、そっちの解決法じゃダメなんだ。「恋愛」という呪縛を離れないといけない。もっと全然違うやり方。まあ、そのひとつが、20代の売りセンボーイを買うことかもしれないし、養子をもらうとか、ボランティアとして他の国に旅立つとかかもしれない。ようやく、自分の発想の限界に気づいた。どうも、まだまだ、どこかで男女の愛というものに、憧れというか、すべてを解決する力を信じていたのかもしれない。男女の愛こそ(なにも男女でなくても、恋愛的な愛情こそ)、一番のもの、崇高なもの…と実はとことん、信じていたのだ、自分は。

「そんなもん、これまでさんざん求めたけど、ちーとも得られなかったから、騒いでいるんだよ!この寂しさがわかるか!」と言われて(いや、実際、言われたわけじゃないけど、言われるところを想像して)…段々、ようやく、わかってきたのだ。恋愛がほしいのではない、寂しさを埋めたいのだと。

さみしさを埋めるのは、恋愛だけじゃない。他にもいろいろあるはずだ。恋愛がないからおしまい…という考え方こそ、狭いロマンチックラブイデオロギーの呪縛だ。そこから解放されて、もっと別の方法を探る…これこそが解決だったんじゃないだろうか。主人公がやることは、「告白」じゃなくて、別の道を探す方法だったんじゃないか……、そのことをずっと考えていた。

……と熱くなっている暇あったら、自分の小説、書けよ…ということですが、はい。