結婚について書いたら、アクセス数が延びたので、もうちょっと書く。
ホントにみんな関心のあるテーマなんだな。けど。
結婚という制度というか、形式は、すでに不要というか、終わっている…と実は思っている…なんて書くと、批難されそうだし、批判される余地もいっぱいあると思う。
けど、現実に終わっているからこそ、結婚するひとが減ったのだと思う。
(よく経済的理由で結婚できない…という意見も聞くけど、今より日本のGNPが低かった時代でも、結婚するひとはたくさんいたし、独身の男女が別々に暮らすより、一緒に暮らしたほうが、経済的には楽になるはずだから、経済的理由っていうのは、あんまり信用できないなーと思う)。
じゃあ、なんで結婚しないひとが多いかといえば、結婚しなくても困らないからだ。同棲でいいからだ。
ちょっと前は、結婚前に男女が一緒に暮らすと、世間的に批難される気配があった。1970年頃には、「同棲時代」という漫画があって、同棲しているだけで、世間を敵に回す二人…という描かれた方だった。
なんてふしだらな!なんて、ハレンチな!…って言われたのね。
でも、今、同棲してて、とやかく言うひとってほとんどいないでしょう。
それと、今の結婚と、前の結婚は根本的に違っているのだ。「前の結婚」っていうのは、明治時代からつい最近の昭和くらいまでの結婚だ。
前の結婚って、要するに「家」と「家」の結婚だった。家を存続させるために、嫁に行ったのだ。だから、結婚式だって、親戚のみんなに新しいメンバーを見せるために必要な儀式だったのだ。
ケニアに去年行った時、結婚について地元の女子に聞いたら、今でも、お嫁に行く代わりに、牛を20頭もらう…とかあるらしい。嫁は新しい働き手であり、子どもを生むひとだから、立派な資産なんだよね。
これらの結婚は、恋愛に基づくものではなくて、「家」と「家」あるいは、父親同士の取り決めによって行われた。いわゆる見合い結婚。取り決め婚とも言う。
今、多くのひとが想像する結婚て、「愛」によるものでしょう。たとえ、見合いであっても、合コンでも出会い系でもいいけど、結婚する大きな理由は、「好きだから」「一緒にいたいから」だと思う。
自分の家を存続させたいから、牛が必要だから…っていうひとは少数だと思う。
結婚の意味が違ってきてしまったのだ。けど、法律上は同じ扱いになっている。(もちろん、旧民法のような「家」制度はないけど)。
これが、結婚がおかしくなっている理由だと思う。
もし、「好きなひとと一緒にいたい」っていうのが一番の理由なら、結婚という制度は必要ないんじゃないか。
誰の許しも必要なく、一緒にいればいい。国に届ける必要もないし、親戚に知らせる必要もないんじゃないか。
(親とか親しい友達に、ちょっと知らせるってことはあるかもしれないけどさ)。
もちろん、今も、結婚していない男女の間の子どもは、法律的な差別を受けるし、結婚していないと、どっちかが死んだときの遺産相続などでもめることになる。これらも、法律が追いついていない結果だ。
この「追いついていない法律」のために、面倒をさけるために、結婚するってことはあると思うけど、それだけなんじゃないか。
結婚って今や、クリスマスを一緒に過ごそうとか、バレンタインにチョコレートを送ろう…というのと同じような、形式的な愛の確認方法である。「結婚」というかたちをとったほうが、愛が長続きするような錯覚があるだけだ。
クリスマスを一緒に過ごしても、バレンタインにチョコレートを送りあっても、別れる時は別れる。結婚も同じ。
だってさー、ひとの気持ちを保証することはできないよ。制度によってなりたっていた結婚なら、制度によって、しばることができるけど、愛=気持ちによって、成り立っているものを制度によって、しばることはできない。
…と思っている。まちがってる?
とはいえ、結婚式などに行くのも好きだし、幸せに…と素直に思う。それはそれでイベントとしてアリだと思っている。
というか、自分は結構派手な結婚式したし、ウエディングドレスも着たくせに、籍は5年くらい入れなかった。…主張があったのではなく、届け出に行くのが面倒だったのでした。放置していたら、「結婚を条件に住宅ローンを組んだ」銀行から怒られたのでいれました。(その後、リコンしましたけど)。
というわけで、自分は、法律が現実に追いついていないだけ…と思うのです。
けど、今も、「結婚」というのは甘い響きを持っていて、そこには、「一生、君と一緒にいるよ」という覚悟を感じさせるので、うっとりさせるのかもしれないです。
…あ、このような結婚観だから、離婚したんでしょ…と批難されそうだなあ。そうかもしれないけど。
制度によって気持ちはしばれない。しばれるのはお金だ。が、お金が、気持ちを癒すこともあるから、難しいところであります。