山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

続・フラットになっていく。

ツイッターで同性婚についてのコメントを読み、気になったので。

私は、同性婚は認められるべきだと思ってる。

けど、一方で、同性でも異性でも、「結婚」という制度そのものへの疑問がある。

なんで、ひとりの相手との永遠を誓い、それを国に提出しないといけないのか。

なんで、それが唯一の正しい道のように語られるのか。

不倫とか浮気とか、結婚しているひとが配偶者以外と恋愛をすると、鬼の首をとったかのように非難するひとがいる。

道にはずれた行い…とか、人を傷つけるとか、言って。

はたまた、非嫡出子の問題。ようやく、差別が取り払われる方向に向かっているけど、子供はみんな子供なのに、おかしいじゃないか。

だから、結婚制度含め、個人のプライバシーの案件を国家レベルで「ひとつの型」に決めてしまうのが気持ち悪い。

一緒にいるのが、異性でも同性でもいいし、ひとりじゃなくてもいいじゃないか、と思う。

ひとりで子供を産んでもいいし、いろんなひとの子供をうむのもいいし、子供と関係ないひとと一緒に育てるのもいい。

無駄な枠組みをどんどんはずしていったらいいと思う。

が。

そう思う一方で、これもまた、「フラット」化の一つになるんだろうか。

これまであったしがらみを解き、いろんなもの、ことが自由になってきた。

家制度から解放され、「家を継ぐ」とか「血族によるつながり」が減ったし、結婚しない人も増え、女だからといって、全員が子供を産むわけじゃなくなった。

どんどん解放され、楽になってよいと思う。

思う一方で、全部がフラットになった場合、つまり、なんでもありが実現した場合、逆に人間関係でも、「祭り」が必要になってしまうんじゃないか。

大丈夫か。

結婚式や葬式などは、家族や親戚によって行われ、そのキズナを確認させられる機会であった。

これもまた、「祭り」といえる。

ところが、そのような限定的な人間関係をほどいてしまったら、典型的な「祭り」は減るだろう。

現に、同棲しているカップルは「同棲式」などしない。

そうすると、ここでもなにも起こらない日常が続いてしまう。銀婚式も離婚もない。ふらっと一緒に住んで、さらりと去って行く。

とても気持ちのいいことに思える。

思えるけど、そのフラットさにちょっと不安を覚える。

でもきっと、新しいタイプの「祭り」的なものが生まれるのかもしれない。

そうだな。きっとなにかが生まれて来て、変わるのだろう。

それに期待して、どんどん枠組みがはずれていったらいいと思う。