ようやく、映画「生きているものはいないのか」を見ました。
いやー、面白かったです。
もとは、劇団五反田団の前田司郎氏による、舞台ですが、映画はかなり、戯曲に忠実でした。脚本や構成などもほとんどそのままなのではないかしら。
そして、それがとても良かった。
ある種、非常に不条理なお話なので、映像化するとき、手を入れて、「映像向き」にシフトするのではないかと思っていました。けど、そうすることで舞台のもつ、あの圧倒的な感じが失われるのではないかと危惧していたのでした。杞憂でした。
ざっくりあらすじをいいますと、病院も併設している大学で、ある日、なんの理由もなく、ばたばたと人が死んでいく。死に方も異様で人それぞれで、しかし、発病するとほとんど数分で死ぬという、恐ろしいものです。
理由も明かされず、ひたすら人が死んでいく話です。
こう書くとずいぶんと陰惨な話のように思えますが、もちろん、陰惨なんですが、あまりに日常的に死が訪れるので、しかも突然すぎて、悲しみや恐怖が入り混む隙がないくらい、日常にまみれて死んでいくんです。
まさか死が訪れると思っていないわけですから、それぞれはそれぞれの情けない事情をひきずり、おもしろおかしい日常を送っているわけです。
また、この日常の描き方が、とても秀逸。
何気ない会話のなかに、ひとそれぞれのズレ方やらおかしな意識が上手に浮き彫りにされているんですね。でも、その会話や関係性など、突然、おそってくる「死」とはなんの因果関係もないんです。
悪者が先に死ぬわけでも、善良なひとが苦しまないわけでもない。ある種、死は平等に突然にやってくる。
このような奇病を描く場合、パニックを描き、犯人捜しを描き、最後は解決を描く(あるいは解決されないという恐怖を描く)ものが多いですが、これは、パニックに特化するわけでもなく、犯人が見つかるどころか、なにひとつ手がかりもないまま、解決されないままに終わります。
ここまでの運びも面白いんですよね。舞台のほうが、より奇妙な感じが強いですが。
映像だと、空や建物や自然の木々などが映るので、どうしてもリアリティを獲得するのが難しいです。というか、リアリティに邪魔される。
舞台の上の人間は、象徴的な存在になるのが易しいですが、カメラの前ではより厳しくなります。
しかし、このお話はなんだろう。不慮の事故で次々とひとが死ぬ。
昨年の地震、津波、原発事故のあとでは、ちょっと他人事には思えなくなる。
そういう意味ではリアリティはあまりないんですね。こんな風にひとがバタバタと死んだ時、実際、ひとはどうなるか、どう行動するかは、なかなか想像できないけれども、このお話のほうが、たぶんに劇画的リアクションです。
先日来、「リアリティある芝居」を目指したいと思っておりますが、一方で、リアリティに拘りすぎて、話をつまらなくしてしまうってこともあります。事実に拘りすぎるとフィクションはゆきづまる。
それを、「クソリアリズム」と呼ぶ、と優秀な記録さんに言われたことがあります。
そういう意味でいうと、このお話は、虚構の自由さにのっているんですね。虚構だからこそ、描けるものを存分に描いている。
虚構ー理由もなくひとがどんどん死ぬという異常な設定にのった上で、その時のひとの振る舞いやありようを丁寧にすくっていくわけですね。
それが、不謹慎ですが、思わず、笑うようなことばかりです。
ものすごく不吉で不安で、恐ろしい反面、とてつもなくおかしいんですよね。
その絶妙。楽しみました。
このほか、先週は、映画「ものすごくうるさくてありえないほど近い」を見ました。原作小説が読みたくなる映画でした。これは一見リアリティありそうですが、そうでもない。911を素材にしているけど、それ以外は、かなり虚構に頼っています。「作りすぎ」のきらいもあるほどでした。
そんなわけで、もうすぐ、台湾です。