山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「がむしゃら」

高原秀和監督の映画「がむしゃら」を見てきました。

「悪斗」(アクト)という、女子プロレスラーのお話です。

まず、驚いたのが、女子プロレスが、とても激しいこと。

ずっと以前に見たことはあリましたが、(長与千種の時代!)、あんなに激しいものだったという記憶はない。

とにかく、迫力が半端無い。

飛ぶは、投げるは、叩くは、殴るは、の連続で、

「やめてー」「そんなことしたら、痛いでしょうが」と気が気ではありませんでした。

男子プロレスより荒っぽく見えるのは、私も同性だからでしょうか。

そして、レスラーたちの、身体能力の高さ。

普通の女子なら、決して交わすことのできない技の数々。

真に命がけに見えました。

(もちろん、編集で、激しい部分ばかりをつないでいる、ということもあるとは思いますが、それにしても、一つ一つが、激しすぎる)

映画のヒロイン、悪斗は、悪役レスラーで、リングの上では、悪魔のような衣装で、暴言を吐き、暴れまわる、テンションの異常に高いレスラーです。

では、彼女はなぜ、悪役レスラーになったのだろうか。

彼女の来歴が紐解かれていきます。

東北地方に生まれ、正義感が強く、剣道に邁進していた少女は、ある事件に巻き込まれる。

その時から彼女の人生は狂い始める。

自分では逃れることのできない苦しみを背負うことになります。

その過程を、監督の高原さんが優しく、インタビューしながら、たどっていきます。

辛かった10代、女優を目指した20代、そして、行き着いた、女子プロレスの悪役。

現在の、彼女の笑顔の秘密がわかったような気がしました。

これは、プロレスという暴力の飛び交う激しい場所でなければ、立ち直ることのできなかった、一人の女の子の物語。

人はどのように再生し、どのようにして、自分を生かす場所を見つけていくか、を教えてくれる作品です。

映画の中で、最も気になった言葉がありました。

他人から受けた痛みをなしにするためには、

それ以上の痛みを、自分が自分に与えること。

この痛みは、他人から受けたものではない。

そんなものは大したものではない。

自分が自分に与えた痛みこそが本物で、それこそが、「痛み」なのだ。

といったようなセリフがありました。

衝撃的でした。

そして、おそらくそれは本当だと思いました。

心底辛い思いをした時、人がその痛みを回避する方法は、せめてその痛みの根源をコントロールすること。

コントロールできるのだと信じること。

ギリギリの淵に立ったことのある人ではないと、言えない台詞だと思いました。

キレイごとでは解決できない痛みがそこにはある。

それを本能的に悟り、レスラーという職業を選んだ彼女の「生きる力」に感銘を受けました。

生きにくい世界だよね。

辛いよね。

でも、生き抜いたんだね、

そう言いたくなりました。

ギリギリの女の子が、「かかって来い!」って、立ち上がる姿は、勝ち目があろうとなかろうと常に感動します。

「プロレスとは、戦う姿を見せることです」といった監督がいましたが、

まさにそう思う。

しびれました。

(映画は自主上映でのみ、見ることができるようです)