前回の続き。6月30日の文學界新人賞に原稿を送った後、7月10日締め切りの少女小説の賞(名前、思い出せず)に向けて、別の小説を書き始めた。心根は優しいけどモテない、さえないOLの話だったと思う。書き終わったのは、やはり締め切りの朝。およそ200枚。とにかく、書き上がった、なんでもいいから送ろうと思った。
が、当時、使っていたプリンタでは一度に100枚しか印刷できず、前半、後半に分けて印刷することになった。悲劇はその時起こった。
単純な話だけど、半分に分けて保存したり、印刷のために変換したりしているうちに、一瞬にして、前半100枚が消えてしまった。そのときの脱力感を今も覚えている。もう一度書こうと思えば、頭の中にデータはあるので、できないことはない。が、数時間で100枚書くことができるのか自信がなかったし、気力が残っていなかった。結局、何もせずに諦めた。あの時、ちゃんと完成していたら、少女小説でデビューしてたかも。そしたらそのまま少女小説家になっていたかも。そしたら、そのうち、フツウの小説も書かしてもらって、もっと早く本が出て・・と妄想は膨らむ。案外、そっちの方が早道だったか。(今頃、直木賞作家になってた?いえ、そこまでずうずうしく思っておりません)とにかく、運命のいたずらと自分自身の電子機器使いこなし能力の欠如によって、少女小説デビューの道は途絶えた。
けど、賞を取るまで応募し続けよう気分は全く、変わっていず、次の目標をすぐに設定した。確か、7月31日締め切りのサンダンス国際賞(NHK主催)。これは映画のシナリオに贈られる賞で、うまくいくと、サンダンス(アメリカですね)に映画留学できして、しかも映画も撮らしてもらえる。そのうえ、応募者は、賞を取った場合、映像化できる者(ある種の経験者)という規定がある。あまたの小説の賞のように、日本語さえ書ければ、誰でも応募できるのと違うのである。応募者数が限られるのだ。これはチャンスだ。
少女小説を半分消してしまったことをすっきり忘れ、(その話にそれほど執着がなかったんですね)、映画のシナリオを書き始めた。
これは結構自伝めいたお話。北海道の牧場で競争馬を育てる女性と、彼女を取材にしにきたテレビディレクター(♀)との友情にそれぞれの恋愛が絡んで・・。(実は牧場で働く女性のドキュメンタリーを前に撮ったことがあった)
もちろん、ストーリーはフィクションだけど、牧場に三か月ほど通って取材した経験があったので、ディテールをちゃんと書けたと思う。これも、締め切りぎりぎりで完成。合計すると、一か月半で、400枚近く書いたことになる。
さすがにここらあたりで息切れし、金銭的にもきつくなったので、仕事を始めた。(前後合わせると3か月くらいまともに働いてなかった)たまたま誘われた、民放の特番に参加。90分か2時間の番組でそのなかに出てくる5分から10分ほどのビデオ部分を作る、というお仕事。専門用語では、取材ディレクターと呼ばれる。長い長い間、しょ中やってきた仕事である。当時すでに職人気分だったと思う。久しぶりにロケに出る時、いろいろ書いて応募したけど、結局私の仕事はこれなのね、とちょっとさみしいような、懐かしいような気持ちになったのを思い出す。その夏も今年のように暑かった。炎天下を三輪車で疾走するレースをカメラマンと一緒に走り回って撮影した。編集、ナレーション作り、音楽入れなどをこなすうち、季節は秋へと変わり、夏の初めにせっせと書いていたことなんてみんな嘘のようだった。いつものチンピラテレビディレクターの日々に戻っていたのだ。(以下、次号)
写真は本文に全然関係のない、うちの窓から見える風景。目の前に40階建てのマンションが建設中。少女小説でデビューしてたら、今頃すでにベストセラー出して、あっち(高層マンション)のひとつも買えたかも・・という気持ちは特にはないけど。タハ。