そんなわけで、95年の秋はHAPPYだった。応募した賞はことごとく入選し、やっと未来が開けそうだった。中でも本命は文學界新人賞。
担当の女性編集者は20代前半のT大卒の才媛、
しかもアイドル並にかわいらしかった。
結果発表の日は、高齢者用の就職斡旋ビデオを撮っていた。ドラマ仕立てだったため、老齢の名脇役の方々にご出演いただいた。
ロケは早めに終わり(一応、私は仕事は早い)、なんども「決まったか?」と聞いてくるプロデューサー氏から逃れ、ロケバスの中で電話を待った。隣には仲良しの助監督。アイドル編集者は約束通りの時間に電話をくれ、「奨励賞」に決まったことを教えてくれた。奨励賞ってなに?という感じだった。
選考委員のA氏が
「この小説はセリブルだね」
って言ってました、と伝えてくれた。でもね、本にならなきゃ、売れるもなにも関係ないじゃん、とわかるのは後の話。それでも仲良し助監督と手に手を取り合ってよろこんだ。
この後、サンダンス国際賞は、面接でひどくつっこまれ、
その場で落ちたのを確信するにいたるわけだが、このようにして秋は過ぎていった。
がしかし、4つ応募して3つそこそこいけたりすると、(打率7割以上?)自分って才能あるのかしらん、と思っても非難されまい。落ちたのは、地方局の主催するシナリオの賞だけ。(これは一次も通らなかった)
なんかいいことあるのかしら、と浮かれながら、テレビの仕事をこなすけど、一向、
いいことなんて起こらなかった。
アイドル編集者は言った。
「うちは、A賞の候補にならないと本にならないんですよ」(笑顔)
とほほ。新人賞ってみんな本になるのかと思っていた。己の無知を呪った。(というほどでもなく)すぐに本くらい出してもらえるのかと思っていた。甘い、大アマでした。
結局、仕事に結びついたのは漫画の原作の賞だけで、(ここは賞金もくれたし、派手な受賞パーティーもあった)翌年の春、サンダンスで賞を逃したシナリオを漫画用に書き直して原作にした。ところ、某漫画誌のいきなり巻頭を飾ってくれた。某漫画編集部のひとびとに囲まれ、音羽で寿司をごちそうになった。
「漫画原作者への道?」
けれども、その道はそうそうに諦めた。漫画を侮ってはいけない。そこにはそこの真剣勝負があるのだ。その頃、知己を得た高名な文学系編集者に言われた。
「漫画の原作など書いていると決して、A賞はとれない」
はっはーとひれふす私。
「漫画やめた~」
と、このように権威に弱かっただけじゃなく、やっぱり、小説書きたかったんです。漫画原作もいいけれど、それはあくまで原作。漫画は漫画家のものだし。
漫画原作はやめることにした。なにを選んでもいばらの道なら、一番好きなひとと歩みましょう、というもの。というわけで、年が新たまり、ここから、真のいばらの道が待っていたのだった。
以下次号。