そんなわけで、営業第一。
本も商品であるので、出来上がった以上は少しでも売ることを考えなくてはいけない。小説を書き上げるのとは全く別の能力が要求されるのであった。多分、かつては、小説家たるもの、売り上げなどに一喜一憂してはいけない、という空気が流れていたのでしょうけれども、ちょっと本屋に行ってみるだけでわかるけれども、これだけたくさんの本が出ては消え、出ては消えする、今、わたし、芸術家だからなんもしないんだもんね、というわけにはいかない。
(いえ、いくのも自由)
そして、そもそも、私は20年近い歳月を「数字」といえば、「視聴率」のことをさす、テレビ業界で生きてきたため、数字が大好き、もしくは弱い。テレビを生業とする前だって、楽しい受験戦争を経験してきたので、そこでも偏差値くんという「数字」と長らくおつきあいしてきたので、「数字」は決して、異質なものではない。つまり、幼少の頃より親しくしてきた基準なのである。
そこで、今週も楽しい書店巡りに出かけました。
とはいえ、さすがに自分の本の営業をするのは勇気のいるものである。テレビの取材で、見知らぬ人に話しかけ、聞きにくいことを平気で質問する度胸はついたが、それはまた別である。
そこで、初日は、美人で歯切れの良い年下の女子に付き添ってもらった。(仕事でもないのにごめんね。)おかげさまで、新宿紀伊国屋の南口店では、サイン本のコーナーにまで進出。5冊サインさせてもらった。新宿の書店を6件、渋谷に移動してさらに4件ほど、回る。いやあ、どきどきでした。
しかし、書店員さんというものをはじめて、個人として認識した。最近は本はほとんどネットで買っていたこともあるが、書店員さんのひととなりについて、考えてみたこともなかった。おしなべて、書店の文藝担当者というのは、物腰が静かで、質素で、学校の先生から権威をはぎ取って、まめさをプラスしたような感じの方が多い。いきなり現れた妙齢の女性二人組に臆することなく、冷静に対応してくださった。
みなさま、突然失礼しました。そして、話を聞いて下さって、ありがとうございます。また、伺います。
そして、本日は一人で八重洲ブックセンターに出撃。
店も終わりまじかであったが、「女流作家」のコーナーにジェニーのイラストがかわいく光って、面を見せて並んでいた。この書店はさすが、サラリーマンご用達であって、文藝のコーナーも前面は男性作家がしめ、そのとなりにミステリーコーナー。女流は壁際にひっそり押しやられている。大企業の席順みたいですね。女流はさしずめ、総合職のOLさん。ちょっと疎まれちゃっている感じ。いつものハウツー本は近所にはなく、彼女たちは、(ハウツー本はいわば、お茶汲みOLさん)男流作家とは意外と近所の、レジ近くのわりかと日当たりのよい場所に陣取っていた。
そんなわけで、わが「ベイシーシャワー」は、文学プロパーの本たちと一緒に女流の片隅にひっそり並んでいたのであった。
発見、これはこれでよいことだ。
最近の文学系売れ筋は小川洋子先生の作品群。本屋さん大賞などを受賞されたゆえ、どこでも超平積み状態である。しかし、小川さんは「ア」列なので、「ヤ」列とはかけ離れている。私のご近所のエースといえば、吉本ばなな様の「はつ恋」と柳美里さまの「八月の果て」である。どちらも大作家であるので、私などはなからライバルでもあるまいが、ここに妙味があるのだった。
八重洲に本を買いにくる女性(と勝手に限定)、しかも文芸書の欄を歩く女性とは、どんなひとだろう。彼女は何を思い、仕事を終えて、文芸書を見るのだろう。毎日、わからずやのおやじに囲まれ、制服なども着せられ、煙草の煙と整髪料と加齢臭の海のなか、手応えのない仕事を続ける。そんな彼女が、約束のない週末、本屋を訪れる。疲れきった彼女には、「八月の果て」は文学すぎて重くはないか。「はつ恋」はかわいらしすぎて、手にできなくはないか。
そこで、私の本にも機会が巡ってくるというもの。毎日、通っていいなら、その場で叩き売りでもやりたい気分である。仕事に疲れた貴女、男にうんざりの貴女、いい本ありまっせと。
そんなわけで、八重洲ブックセンターではなかなかよい位置をキープしていたと言いたかっただけでした。手書きのポップも置いてきました。
堀江氏ではないが、営業が肝心。また、行こうっと。