山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

バレンタインの正体

バレンタインデーが近い。
あれはいつから女が男にチョコレートをあげる日になったのだろうか。
逆だったらどうなのか。

私はチョコレートが好きなので、もらったら嬉しいと思うけれど、
「バレンタインは男が女にチョコレートをあげる日」と変更されたからといって、
必ず、自分がもらえるとは限らないのだった。
というより、そうなってくると、「もらえるかどうか」みたいなことを気にするようになり、はなはだ、精神衛生上よろしくなく、ストレスになるだろうから、現行のままでよい。
(といってもそういう年齢からはずれているので、今さらどうでもいいっちゃいいけど)

さらに考えてみると、女というのは年中いろんなものを(もてるひとはね)もらえることになっているのだった。
ご飯をごちそうになったり、服やアクセサリーを頂いたりと、男にその気があれば、年中バレンタインなのだった。

すると、女から迫っていける年に一度の日、バレンタインとは、犬猫における、発情期のようなものか。
ご存じのように(ってどれくらいこの事実が人口に膾炙しているかしらないけど)
犬猫は、メスのみ、発情する。(年に2回)

で、メスが発情しているとそれにつられて雄は発情する。
いってみれば、雄はいつでも発情できるけど、すべてがメス次第ってことになる。

そういう意味で言えば、バレンタインは人間のメスの発情期といえるかもしれない。
この時期のメスは、犬であれば、出血することで(尾籠な話でしつれい)発情を知らせるわけだが、人間のメスは(しかも日本限定)チョコレートで知らせるのだった。

そういえば、チョコレートは限りなく血液に似ている。(似てないか)

世界が複雑になり、発情期も設定してやんないと、ひとはうまく発情できないのかもしれない。
クリスマスやバレンタインが恋愛と密接になったのって、歴史的に見て(っておおげさだけど)日本人の性的ポテンシャルが下がって行く時期と重なっているのかもしれない。

昔から祭りの夜には、普段の規範がゆるんだけど、都会の生活で祭りが機能しなくなり、そのかわりに、クリスマスやバレンタインという祭りが発達したのかもしれない。
祭りの夜には男女はつがうものだったし。

えっと、そう考えるとバレンタインもなんだか、かあいらしいものに思えてくる。
あれは、発情祭りなのだ。

野性を失いつつある現代人の発情のための装置。
それがバレンタインの正体だったのだ。
まったく、ヒトってやつは、面白いことをするのだなあ。