山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

ラブレターズにみる痛み

今夜は、女優の伊藤歩さんと大森南朋さん出演の「ラブレターズ」をパルコ劇場に見に行った。
ひとことでいうと、よかった。いたかった。泣いた。伊藤歩ちゃん、せつなかった。
(ひとことじゃないか)

ラブレターズは、一組の男女の間で、50年間も続いた手紙のやりとりを読みあげるかたちの朗読劇である。
舞台には二つの椅子と小さなテーブルがひとつ。

アンディー(男)役の俳優と、メリッサ(女)役の女優が出てきて、椅子に座り、舞台が始まる。ふたりが、それぞれの手紙を読みあうだけである。これは一見、ものすごく退屈ではないかと思われるが、ロングランするだけあって、秀逸な戯曲(っていうのかな)だった。

アンディーはわかりやすい男だ。裕福ではないが、暖かい家庭に育ち、将来は人の役にたつ仕事をしたいと考える。
一方の、メリッサはすこし複雑だ。裕福だが、両親は不仲だし、本人もややエキセントリックな性格である。

最初は、アンディーのメリッサへの片思いから始まるが、次第にメリッサもアンディを好きになる。10代はどちらかというと、男が女を追いかけて終わる。
20代では、一度はセックスを試みるところまで進むが、どうもうまくいかない。

以後、2人は心のなかでは惹かれつつも、すれ違い続けるのだ。
最初に、メリッサが結婚し、傷付いたアンディはメリッサをあきらめる。時間が過ぎて、メリッサが離婚を望み、アンディとの復縁を密かに願う頃、アンディが結婚してしまう。

メリッサは画家として成功をおさめるが、いつも私生活は不安定である。
一方の、アンディは、三児の父となり、貞淑な妻と幸福な日々を送る。法律家から上院議員にまで上り詰める。

ふたりが再び、恋愛に走るのは、50代になってからである。しかし、これは長く続かない。そして、このことをきっかけにメリッサは精神に異常をきたしていくのだった。

うー。
勝手に筋書きを書いてしまったけど、なんていうんだろう、恋愛なんて、ほんと50年スパンで見ないと語れないのではないかと思ってしまった。もちろん、10代の恋愛も美しいと思うけど、そんなもん、誰でもできる、ちっぽけな経験ではないだろうか。
言葉を変えれば、10代、20代の性欲に振り回されての恋愛などたかが知れている。

この舞台の2人のように、50年に渡って、惹かれあいつつ、反発しあう、とことんまで知り尽くすというのが、もしや恋愛の醍醐味であり、類い稀な愛ではないかと思うのだった。相手が他のひとと結婚しようと、子供を生もうとそんなことではゆるがない愛情、もしくは友情。その強さと美しさ。そして、それを見事に手紙というツールを使って、描き出した才にほれぼれした。

手紙は1937年に始まり、87年に終わるのだが、途中で、「手紙」についての考察がなされる。メリッサは途中で、手紙のやりとりをやめて、実際にもっと会ったり、せめて電話で話をしようと提案するのだが、アンディは手紙のほうが思いを伝えられるとそれを拒む。
これに対して、メリッサは言う。

あんまり手紙のやりとりばかりしていると、実物と手紙のなかの人物にずれが生まれてくる。だから、実際会っても、手紙のなかの男と目の前の男が重ならないような気がしてよくない、と。

これは、メール全盛の今にぴったりくるエピソードである。メールでやりとりしていると、メールの上では親しくなっていくのだが、実際、会うと違和感を覚えることがある。
あれ、こんなひとだっけ?
文章ではいくらでも嘘はつける。いくらでもよいひとになれる。
メール全盛と言いつつ、やり過ぎて、セーブし始めるひとが増えているそうだ。
(ということを昨晩のJ-WAVEでやっていた。最近のコは、中学時代にメール全盛期を迎え、以後、減少するらしい。まあ、これはよく考えると当然で、高校生になるとメールより楽しいことがいっぱいあるもんね)

まあ、それはともかく、朗読劇「ラブレターズ」は、メリッサの死を持って終わる。どちらかといえば、この芝居の主役はメリッサだろう。もし、彼女がフツウの女性だったら、2人の文通は途絶えたのではないか。メリッサの正直でちょっと痛い痛しい人生を浮き彫りにするために、アンディがいて、手紙があったとも思える。

いやあ、いろいろ考え込んでしまった。(だから深夜まで飲んじゃった)
結局、自分も人生でかけがいのない恋愛相手って3人しかいない。(ニアミスはいっぱいあったにしろ)。そういうものなのかも。やっぱり仕事も恋愛も時間と情熱をかけないとね。
傑作でした。