山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

純愛という宗教


ロケは夜からなので、午後、ドゥーモへ行く。
写真は、ドウモの屋根からの風景。
聖人たちが街を見下ろしているのが面白かった。

ゴシック建築が美しいとか、いろいろあれど、もっとも感じたことは、信仰心とはなにか、について。
あの巨大な建物を建てさせた背景について、考えてしまった。

そこにあるのは、ひとは何かを信じていないと生きて行けないということ。
ひとにとって、もっとも恐ろしいことが「死」であり、「死」を理解し、理解できないまでも、「死」を乗り越えるために、宗教が必要だったのだろうと思う。「死」はそれくらい恐ろしく辛いことだったのだろう。(今でもそれは同じにしろ)

そういった死に対する恐れが信仰心の奥底にあると思う。その強さ、激しさをドゥモという建物からひしひしと感じた。あれだけの建物をつくるのは、結局、ひとのなにかを(この場合はキリスト教という宗教)を信じる心ゆえなのだ。

20世紀に神は死んだ、と言われ、一応先進国では宗教という概念は終わったとされている。
じゃあ、あの強い信仰心に変わるものはなんだろうか。

それはずばり、ロマンチックラブ・イデオロギーでしょう。
つまり、「愛」ってやつですね。一般的には男女の愛。
宗教による戦争などの痛い経験のあと、20世紀のひとたちがすがりついたのは、身近なひとたちによせる信仰心のような、愛情だったというわけ。

宗教と純愛はよく似ている。
宗教をなくしたひとたちが、すがるように手に入れたのはが「愛」ってやつだったんですね。だから、狂信者と愛を信じるひとたちはとてもよく似ている。
蘇りを信じたり、永遠をうたったり。死はすべての終わりではない、と考えたがる。(気持ちはわかるけどさあ)

みんななにかを信じて、それにすがりたいんだよね。
新興宗教ブームと純愛ブームって根は同じなんだと思う。すがりたいひとたちのよすがだ。

もちろん、それを信じて、信じることで救われるとしたら、ほんと手軽でいいと思う。
できれば、私も入信したいけど、もはや、そういった信仰心をもてない身。
宗教も純愛もない荒野を歩いていくしかないのだった。
とほほ。