山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

セックスとゆとり教育

ここのところ、J.M.クッツェーの小説を読んでいる。
昨晩、読んだのは、「夷狄(イテキ)を待ちながら」。夷狄(イテキ)とは英語のBARABARIANNSで、野蛮人みたいな意味だろう。小説の舞台は南アフリカ共和国の辺境地帯と思われる場所で、主人公は、その地の民政官である。老境に差し掛かった彼のもとに、
「帝国」の軍隊から大佐がやってくる。大佐は、夷狄(イテキ)が今に攻めて来ると言って、無理矢理、夷狄(イテキ)を捕虜にして、拷問する。主人公の民政官は、軍隊の蛮行に怒りを覚えながらも、なにもできずにいる。

が、彼の運命を変えたのは、ひとりの夷狄の少女である。主人公は、拷問によって、足が不自由になり、乞食をしていた彼女(10代と思われる)を拾う。彼の最初の意図は、拷問で傷付いた彼女をいたわることだが、結局、彼女と性的な関係になってしまう。

うう。
いいたいことにたどり着くまでに、すごく時間がかかってしまった。「夷狄(イテキ)を待ちながら」は、第一義的に支配/非支配や暴力に関する小説であるとは思うのだけど、この作家の別の著素「恥辱」と構造がとても似ているのが、心の底から悪人ではない、知的な主人公が、50歳をすぎた老齢であるのに、いきなり少女に性的に強く執着することから、物語が始まっているところである。

「恥辱」にしろ、「夷狄(イテキ)を待ちながら」にしろ、老齢の主人公が少女と性的関係を結んだことで、彼は過酷な運命を背負うことになるのだ。その執着の強さといったら。ていねいに強烈にクッツェーは描くのである。

ここでフト、立ち止まる。
そこには、「愛」とか「恋」というような、甘ったるさはない。ほとんど言葉を交わしていないのに、ただただ、性的に結びつきたいのである。
もしかして、と思うのである。

恋愛などというものは、あとからくっついてきたもので、基本はその、性的な関係になりたい、というシンプルな欲望だったりして、それが、文明が進んで、わけがわからなくなってしまっているのかしら、などと思うのだった。

それで、「ゆとり教育」つう言葉を思い出したのである。「ゆとり」と「教育」は本当は、相容れない、相反したものなのに、無理くりそれをくっつけて、この世にゆとりある教育が存在し、実行することが可能のようにふるまったのが、間違いではないか。

それは、実は「恋愛」はめったにしか成立しないものであり、ほとんどが「性愛」によって支えられているのに、誰もが「恋愛」を手にできると信じていることと似ているように思ったのだ。(むりやりすぎ?)

20世紀の考え過ぎの結果、言葉だけが一人歩きする。

恋愛なんてなくても、やりたい気持ちでいいじゃないか。
教育なんて、むりやり子供に社会のルールをおしつけるものでいいじゃないか、という気が
したのである。