山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

犬はヒトの死をどう認識するか。

そんなわけで、父の死について、もう少し。

私は、大の犬好きであるが、これは遺伝なのか、習慣なのか、つまり、父が犬がとても好きだったのである。
物心付いた頃から、いつも家には犬がいて、犬を大切にして大きくなった。

おかげで、姉妹も犬好きに育ち、あらゆる部分で重なることの少ない姉妹であるが、「犬が好き」という一点に限り、調和をみることができる。

そんな姉妹であるから、父が亡くなり、ナキガラが実家に戻ってきたとき、それぞれの飼っている犬にあわせようという提案がでるのは自然のなりゆきだった。
そもそも、ICUにいる頃から、犬にあわせたら、意識を取り戻すのではないかと相談していたくらいである。

看護婦さんに、「犬連れてきていいですか」と一応聞いて、「それだけは勘弁して下さい」と苦笑されていた。

で、ナキガラが実家に戻った深夜のこと。
私はいったん、自分の家にもどり、車に二頭の犬(カナ、ミニ)を連れて、実家に行った。
二頭いきなり会わせて、ナキガラに噛み付いたり、おしっこをかけたり、など粗相があっては困ると思ったので、まずは、母犬のカナを会わせることにした。

父は大の犬好きであったから、カナもすっかり懐いていて、会えば、走っていって飛びつく関係であった。果たして、そんなカナは父の死をどう認識するのだろうか。

ナキガラの横たわる部屋にいれると、カナはしずしずと遺体に近付いた。必死に匂いを嗅いでいる。亡くなって、数時間を経ているし、いろんな医療的処置が施されているから、生きている普通のヒトとはすでに匂いが違っているのだろう。

走って行って飛びつく、ということはなかった。
が、少し匂いを嗅いだ後、カナは、父の顔に載せてあった白い布のなかにハナをつっこみ、
ほとんど毛のない頭部をなめ始めたのである。それは、カナが自分の子犬であるミニに対してする動きとほとんど同じだった。慰めている感じ、と思うのは、犬のやることに、感情移入しすぎだろうか。

しかし、カナは2、3回、父の頭をなめると、ふっと興味をなくしたように、ナキガラから離れた。ヒトみたいに、いつまでもすがって泣いたりしないのだった。

そして、ミニの番。 ミニも父に懐いていたのに、これはまったくダメだった。
部屋に入ったとたんに、体をブルブル振るわせて、その場に座ってしまった。

ひとつには、普段べったりの母犬と別の部屋に入れられたことで脅えていたのと、たぶん、ヒトのナキガラという初めての物体に、怖じ気づいたのだと思う。

リードをひっぱって、何度か父の顔に近くに連れて行った。私としてはカナと同じように、父の顔をなめてほしかったのである。常識的にみたら、「ちょっとおかしいんじゃない?」と思われるかもしれないけど、犬なりに供養してほしかったのだ。

結局、なんど促してもミニは震えるばかり。これ以上、部屋にいても仕方ないので諦め、明け方、二頭を自分の家にもどした。

(ちなみに妹の飼っているマメ柴も、ミニと同じような態度だったそうだ)

そんなわけで、犬ってやつらは死に関して、とてもクールだといえる。死んだとたんに、態度が変わってしまうのだ。そして、いつまでも嘆いたりしない。犬たちには、「今」しかないのだ。

これには、アンビバレンツな思いがある。
犬のようにクールでありたい、死をことさら騒がずに受け入れ、今だけみて生きていきたい、という思い。

一方で、ヒトがヒトであるのは、やはり、今だけを見て生きて行くのではない、ということ。
今だけではなく、過去という概念があり、記憶があること。ナキガラに思いを寄せることができること。
どっちもあるから、ヒトはヒトであるのだなあ。

犬とナキガラを見ながら、そんなことを考えた。