山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

愛のよしあし

日比谷にて、「モディリアーニ/真実の愛」という映画を見る。

むむむ。
ヤフーの映画のサイトへの書き込みに、アンディ・ガルシア(モディリアニを演じる)が、かっこよくて破滅的な愛の物語をやりたがり、それにひっかかったのが、たまたま画家・モディリアニの人生だったのではないか、というのがあったが、そうかもしれない。映画が映画として成立して行く過程には、いろんな事情があるのは、日本もハリウッドも大差ないと思う。テレビだって同じだし。(その書き込みはかなり批判的で、書き手のひとは、映画見ながら泣いたそう。もちろん、こんな映画にされたモディリアニが不憫で)

けれども、どんな経緯でつくられようと、出来上がりがよければそれでハッピーなのが作品というものでしょう。(これが選挙ならダメでしょ。当選すればなんでもあり、というわけにはいかない。が、芸術作品というものは、出来上がりが良ければ、経緯は問われない、と思う、少なくとも私は問わなくていいと思う)

ので、アンディ・ガルシアがモディリアニをやりたがったかどうかはおいといて、映画としては、まずまずだった。(かな?絵描きが出てくるものに甘いのが、私の優しさと弱さなんだけど)。ピカソやユトリロやガートルドスタインなんかがでてきて、ふうん、そんな感じだったんだあ、と思ったりして、特に西洋美術に詳しくなくても面白がれるとは思う。あと、ほんと、芸術家の人生はたいへんだよなあ、とも。

一方でこれは、画家モディリアニとその恋人(つうか、妻)の愛の物語でもある。「真実の愛」と銘打っているのだから、そうなのだろう。昨日、見た、「ウブメの夏」(漢字じゃなくて失礼)のなかで、京極堂さんは言う。「愛っていうのは執着だから、愛はだめだ。愛を捨てることこそ、仏の説く道だ」みたいなこと。

ほほう、と思ったんだよね。日本って仏教の国であったから、「愛」つう概念に身を委ね始めたのは最近なのよね。なのに、今ではすっかり、昔昔から愛を信じて、大切にしてきたみたいに語られちゃって、薄気味わりいって思ってたわけです。よく意味も歴史もわからずに、「愛してます」なんて言っていいのかよ、と。 そういう目でこの映画「モディリアニ」を見るとね、ほんとに、この女バカだね~って感じなんです。とっくに飽きられているのに、モディリアニを諦めきれない。とことん追いかける。で、モディリアニも時々戻ってきたりするんだよね。いわゆる、典型的な「共依存」関係です。

しかも、モディリアニは、アルコールと薬物の依存症である。そうなると、当然、妻はそれを助ける人、イネブラーになるわけですよね。彼女の存在が、モディリアニのアルコール依存を深くしていく・・ともいえるわけで。(彼女は無自覚にしろ。)

ここまで辛辣にいえるのは、自分にもつら~い過去があるからでして、共依存、おそるべし、なんですよね。一度このワールドに身を委ねてしまうと苦しいけれど、案外気持ちいいということもあって、お手軽に「深い愛」の感覚を経験できるというもの。けどさ、そういう「深い愛」ごっこに溺れるのは、20世紀までにしといておくれ、という気分はある。そういう安易な愛の世界にNOということこそ、テーマだと思っているんですもの。

(愛に溺れるのは誰にもできる安易な、安易なことだから)

そんなわけで、モディリアニとその妻は若くしてこの世を去るんです。ライバルだったピカソはその後もずっと生き続け、描き続け、女もとっかえひっかえ、決して「真実の愛がどうこう」なんて、うわついたセリフは吐かなかった。

芸術家の人生をまっともしようと思ったら、「あなただけを愛してる」なんていう女(男)に注意することでしょうね。少なくともそれだけは教えてくれる映画です。多分、芸術って愛の対極にあるものだと思うのでした。