山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

女はモノじゃない

韓国から戻って一週間ほどが過ぎる。その間に、次のロケに向けての整理などしているのだけど、韓国に行って、一番、印象的だったのは、おいしい料理でも反日感情でも韓国ドラマでもなかった。そのことがずっと頭を離れない。

それは、ひとりの男性の言った言葉。
彼は私と同世代の出版関係のひとだけど、彼と日本の小説について話している時だった。私が最近の若い作家の書いたある小説について、どう思いますかとたずねると、顔をしかめてこういった。
「とても不快でした。女性をモノのように扱っている。読んでいて気分が悪くなりました」

彼が不快を訴えた小説はセックスシーンの多いことでも話題になった作品だったけれど、新鮮だったのは、彼の反応だった。たぶん、ほんとに不快だったのだと思う。私もその作品を読んでいたけど、不快とは思わなかったし、確かに女性をモノ扱いしているけれど、それは長い間、日本で生きていれば驚くほどのことではなく、大多数の男性は女性をモノ扱いしているのは自明のことだ。すっかり当然のこととして慣れているのだ。

韓国のそのひとは続けた。
「なぜ、日本の本屋さんでは、平気で女性のヌードの載った雑誌を売るのですか。また、それを平気で電車のなかで読むのですか」
彼は日本に暮らしたこともあり、日本語も堪能だけれども、「女をモノ扱いする文化」には、なれることができなかったそうだ。

なんか、そんなことを真顔でいう大人の男性を生まれて初めて見たと思った。ああ、こういうひとが本当にいるのだな。それまで、絵空事だと思っていた韓流ドラマを理解できたように思った。あれって性的な部分にはなるべく触れないようにしているでしょう。「なにをきれいごとを」とわたしは思っていた。

けれども、あれはきれいごとではなく、韓国の一般的な男性のありようなのかもしれない。
日本人がすっかり忘れてしまったもの、言葉にしにくいけど、「女は商品」ではないと言い切れること。そこには志があるんだよなあ。 もちろん、これについてはいろんなツッコミができることもわかっている。商品なのは女だけじゃないよ。男だって赤ん坊だって、資本主義の世なのかで誰かも商品だよ・・と言うこともできる。けどさ。

そのことをずっと考えている。日本にいるとマヒしてしまうけど、本当はそうじゃないのかも。「それっておかしいよね」って彼のようにその場その場で言っておかないとダメなんだと思った。