今日は、一日家にいて、小倉千加子先生の、「セックス神話解体新書」読みました。
いやあ、面白かったというか、前からそうじゃないかと思っていた通りにすばらしい本でした。
この本が出版されたのは95年ですから、もはや古典の域に入っていると思うけど、いや、古典じゃないな、古典なんていうと古くさいイメージつきまとうから、「基本」か。でも、発売当時は読まなかった。
この間読んで、ふるえた遥洋子さんの「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」にしろ、この手のフェミニズムの本は、読めばきっと納得し、新しい理論武装もできることはわかっているのだけど、いつも、および腰になってしまう。
なぜなら、「ほんとうのこと」が書いてあるのがわかっているから。
普通に暮らして、テレビ番組を作ったり、書いた小悦を流通してもらおうと思ったりしていると、この手の「ほんとうのこと」を知っているのは、かえって、邪魔というか痛みになるのだ。だって、仕事をするには、たくさんの「嘘」を飲み込まないといけないから。
どうせ、嘘のなかで生きるなら、ほんとうのことを知らない方が、痛みが少ないというか。小倉千加子さんの本にもあるけど、「絶望」ってことですよね。絶望していることを忘れるくらい、絶望が日常になっているのが、今の女性たちだから。
同じく敬愛する編集者、藤本由香里さんの名著「わたしの居場所はどこにあるの?」の冒頭にあげられた言葉。
すべては無駄かもしれない。人の世に救いなどないかもしれない。
ただそこに・・祈りがある。
どうしても捨てきれない祈りがある。
(石塚夢見「愛のように幻想りなさい」)
そういう意味でいうと、この本もまた、「祈り」のようだ。すべては無駄かもしれないけど、祈らずにいられない、という。
私がテレビのすみっこや、小説でやろうとしていることも、無駄な抵抗とわかっている祈りみたいなもんかも。
「セックス神話解体新書」のラストはこうだ。
男性支配のこの世を『劇場」になぞらえ、女性は決まった座席にしばりつけられている、のが現状と説明した後で、小倉さんはこう書く。
「この劇場がいやなら出て行くことができるのです。そして新しい劇場を作ることができるのです。いや、その劇場はもうできあがりつつあります。すっかり毒を吐ききった後で、人は新しいリアリティで生きはじめることが許されているのです。」
ほんとうの涙は、こういう本のためにあるのだ。