山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

わかりやすい小説の謎

昨晩は、「ひきこもり文化論」を読み終わった。
そのまま続けて、同じく斎藤環氏の「家族の痕跡」を読んでいる。

「ひきこもり文化論」について、印象に残ったことを書きます。
本の最後の方に、ひきもこりを主人公にした、村上龍氏の「共生虫」という小説に対する批判(といっていいのかわからないけど、批判的な文章)が載っていた。

「共生虫」を私は読んでいないけれど、主人公はひきこもりの少年で、インターネットに耽溺し、その挙げ句、犯罪を起こす、というストーリーらしい。これについて、ひきもりを多く受け持っている精神科医の斎藤さんはかなり批判的に書いていた。まず、ひきこもりのひとでインターネットに耽溺しているタイプというのは、きわめて少ないし、ひきこもりから犯罪を犯すひとも、いない、ということだった。

斎藤さんは臨床の分野でかなりたくさんのひきこもりのひとに会っているけど、およそ、「共生虫」の主人公のようなタイプはいないということだった。しかも、作者の村上龍さんはひきもこりについて、ほとんど取材しないまま、この小説を書いたという。

私もこれを知ってずいぶん、意外だった。村上龍さんの本のせいかどうかわからないけど、ひきこもり=ネットばかりやっている=犯罪に近い人、という印象(偏見?)を持っていたからだ。どこから生まれたかわからない、「ひきもこりってこんな感じ」という根も葉もないイメージを信じていた。そして、それを膨らませるかたちで「共生虫」という小説が存在していること。

斎藤さんの話は続く。
彼が「共生虫」について、各所で批判的なことを書いていたところ、村上龍さんから連絡があり、あらたに「ひきこもり」をテーマにして小説を書くから、取材させてほしいという申し入れがあった。斎藤さんは、もともと村上龍さんのファンでもあったので、喜んで協力し、そして、出来たのが、「最後の家族」という小説であったという。

「最後の家族」はテレビ朝日でドラマ化され、私はこのドラマは見た。(村上龍さんが脚本を書いていたので、興味があって見た)。この一連の出来事を知って、私はとても妙な気持ちになった。
少なくとも、ドラマの「最後の家族」はヒットしなかった。視聴率は振るわないまま終わった。小説の売り上げを具体的に知らないけど、少なくともベストセラーにはなっていないし、それほど話題にも上らなかったと思う。

一方、「共生虫」のほうが、多くの読者を集め、話題になったと思う。
つまり、真実に近い物語より、ひとびとが想像しやすい、期待している(?)イメージを小説化したほうが、多くのひとに受け入れられる、ということだ。

なんだかやるせない。
自分の小説「海」のなかでも書いたけど、ほんと、多くのひとは、真実なんて知りたくないんだよね。
自分にとっての真実、こうあってほしい物語を自分を安心させるために、繰り返し読みたいのだ。その強さに、毎回、立ち上がれない気分になるるけど。

もちろん、いろんな小説、テレビドラマ、映画があっていいわけだけど、「当てる」っていうのは、そういうことなんだよね。「みんなのこうあってほしい物語」の再録だ。・・・。

つまりさ、世の中の多くのひとは、「ひきこもりのひと=いつか犯罪を起こす人」というのを望んでいる、というわけだ。そう考えると怖いな。その偏見によって、ますます、ひきこもってしまうよね。でも、どうしてそういう偏見が生まれるのだろう。根も葉もないとしたら、どうして?偏見の生まれる瞬間について、ちょっと考えてしまうのでした。(いや、多分、偏見って思考停止なんだよね。誰かが言っていることを、考えることなしに、うのみにするってことだ。う~ん。)

そうならないようにしたいな。