山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

動物のように泣く

久しぶりにテレビを見たら、(ほら、あの人が逮捕されたから)、知らないCMが多くて、むしろ、CMに目を奪われてですね、今、猛烈にキムチ鍋が食べたい。

キムチ鍋の元のCMを見たからですね。単純です。でも、キムチ鍋するとしても、キムチ鍋の元は使わないけど。普通にキムチを入れる。それでいいはずなのに、なぜ、「元」なるものが存在するのかしら。その方がおいしいのかな。

昨日は「動物化するポストモダン」を読んだのですが、ちょっとだけまとめると、人には欲望があるけど、動物にあるのは欲求である。それで、ポストモダン(今ですね)の時代では、ひとの欲望は限りなく動物的欲求化する。その典型がおたくである。ということでした。これで、一番納得がいったのはね、「感動」というものを欲望ではなく、欲求としてとらえるのだ、ということです。

つまり、昨今、「泣ける」映画、小説などが隆盛しておりますけど、しかも内容的には、特に新しさのないものが多い。なのに、なぜ、多くの人がそれを求めるか不思議だったんです。それはさ、ストーリーの斬新さや精度ではなく、「泣く」という手っとり早い感動=神経的な刺激を求めた結果だった、ということなんですね。

もはや、「作品」というより、「刺激物」なんだよね。常に消費される運命の。だから、麻薬中毒のように、患者たちは、「もっと泣ける」もの求めて、次を求めて行くのね。他でも、最近のひとは、とにかく「感動」したがっている、というのはよく聞くので、手早く感動できるものが好まれるのだよな。

そのようなことを「動物化するポストモダン」を読みながら、考えました。面白かった。ひとつだけ、くだらないことを言うと、「動物」といったときに、どこか「侮蔑」のニュアンスが込められてしまうような気がして、それが少しひっかかった。なぜなら、(説明するまでもないんですが)自分は犬が好きだし、犬と親密に暮らしているので、わかりやすい「泣き」の映画に涙するひとと一緒にされるのに、違和感を覚えるのでした。(犬>感動しやすいひと。だったりして)。

で、夜はですね、最近、注目の(だいたい、遅れているんですが)斎藤環さんの「ひきこもり文化論」を読み始めました。中身はともかく、文章がかなりくどい。しつこい。同じようなことを繰り返し、細かく説明しています。神経症的、という形容が相応しい。そのあたり、読みにくい部分もあるのですが、どちらかというと自分も「しつこい」系ですので、シンパシーを感じるのでした。

斎藤環さんの書物なども「すぐにわかる」ことを拒否しつづけている。ひきこもりを手っとり早くわかろうとしないし、答えを見つけようともしない。感動を拒否しています。そうだ、感動を拒否しつづけよう。