山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

一夫一婦制と新自由主義

ふと気づいたことがある。一夫一婦制とはなんだったのだろうってことである。

動物の世界では、雄が雌を(雌が雄をでもいいけど)、探すのは命がけであり、すべての雄が雌を獲得できるわけじゃない。弱い雄は雌を獲得できずに遺伝子を残せなかったりする。人間もちょっと前まではそういう時代があり、一人の強い雄(王様だったり、武将だったり)がたくさんの雌を独り占めしたりしていた。大奥なんてそういうもんだった。

が、それは不公平だってことになって(というか、そういう不安定な状態だと戦争が起こりやすく、結局、人類は滅びる方向に進むから、平和を目指して)、一夫一婦制がだんだん確立されてきた。これなら、弱い雄でも雌を獲得できるし、強い雄に独り占めを許さず、ヤリ逃げを許さず、世界が平和になる。近代ってそういう時代だったのかも。(非常に大ざっぱに言ってます)

が、現在たいへん、怒られている新・自由主義と同じで、1980年くらいから、大幅な恋愛市場の自由化が進んだのではないかと思う。つまり、恋愛至上主義(あるいは恋愛原理主義)。これって、実は市場原理主義にとても似ていませんか。それが現れた時期もテーマも、そして、担い手も重なっているように思えてきた。

市場原理主義は、規制を緩和して、「儲けられるひとはとことん儲けてよし!」としたわけですよね。その結果、すさまじい格差社会ができちゃった。恋愛市場も同じで、「恋愛が一番なんだから,モテるひとはどんどんモテてよし。不倫も関係なし。愛人もOK」となり、恋愛における規制を緩和した。結果、恋愛格差社会ができ、結婚できないひとが、どっと増えた。なんか、似てない?

で、現在。かような行き過ぎた「自由主義」つまり、欲望お任せ主義だとやはり、人間も獣と同じで、格差を作ってしまう。ダメじゃん。やっぱり、人間は欲望お任せ主義ではなく、富も女も(男も)分けあおうよってなってきたのではないか。つまり、一夫一婦制の復活。婚活なんて言葉が流行るのも、恋愛はひとまずおいといて、パートナー見つけていいですか?って方向に転換しているのではないだろうか。

SNSのコミュをいろいろ見て行くと、「恋愛体質がキライ」みたいなコミュがあったりする。確かにかつての日本だったら、(70年代くらいまで?)、恋愛が苦手でも、見合いとかによって、相手を見つけることができた。そこに恋愛を持ち込まなくていい風潮があった。それが、恋愛至上主義で一気に破壊された。恋せずに結婚するとはなにごとぞ!というテーゼによって、恋愛の苦手なひとは伴侶を見つけられなくなったのだと思う。

で、今。新・自由主義が立ちゆかなくなったように、恋愛至上主義も限界を迎えているのだろう。「だって、恋愛苦手だもん」と声を上げるひとが出てきたのだ。…と解釈した。これからって、少し時代が逆戻りした感じになるんじゃないかな。そんなことを漠然と感じた。一夫一婦制は強固になるのかもしれない。

…なんか、自分、とことん、時代に逆行してそう。ますます。おお、孤立するぞ。