山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

愛と死と日記をよく読んで。

昨晩は、ヤプログの不調により、書くことができなかった。一日一更新なので、チト残念。そんなわけで、日曜の朝っぱらから日記を書くことに。

昨日は、「31歳ガン漂流」(奥山貴宏著)を読む。31歳で肺ガンにかかり、33歳でなくなった、ポップなフリーライターの日記である。すでに作者は亡くなっているけど、日記のなかでは、ガンと格闘する日々がつづられている。と書くと、哀しみに彩られたものを想像しがちだけど、自分の病気にクールだし、基本的に明るくて面白い。

なんでこの本を読んでいるかというと、ひとつは、ガンにかかったひとの心情を知るためなのですが、友人が、現在、ガンとの闘病日記ブログをやっていて、そこで話題になっていたから。

この「31歳ガン漂流」という本に対して、美人哲学者(こう書いた方がわかりやすいよね)の池田晶子さんが、辛らつな批評をしているようで、果たして、どっちの言い分が正しい、もしくは、心情的に与することができるのか・・・ということで読んだわけです。もちろん、池田晶子の批評文も読んだ。

いやはや。池田晶子というひとにがっかりした。実はそれほどこの哲学者のよい読者ではなかったけど、あんたに言われたくねーというのが、正直な感想。「31歳ガン漂流」はその中でも自分が日記を書く理由をすっきり説明しているし、なにも、ガンにかかったひとが、生とはなにか、死とはなにかを展開する必要なないし、(公開された日記以外で考えているかもしれないし)、しかも、彼の日記が、「死さえ売り物にしてしまう」感じでは全くないと思った。

著者(奥山氏)も、若くしてガンにかかってしまった哀しみとか恐怖とかもあったろうけど、そこに溺れるのではなく、それまで貫いてきたポップなライターらしく、ガンダムやらアンダーワールドやらについて、最後まで書くのである。

そんなわけで、この続編、さらに、著者の小説「ヴァニシングポイント」も購入した。死に至る病にかかったからといって、死の意味、生とはなにかを追求しろ!と叫ぶのは、どこぞの、難病と恋愛がセットになって、愛がどうたらいう物語と同じくらい、ありきたりな反応ではないかと思うのでした。