山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

悪事について。

元・村上ファンドの村上世彰被告の論告求刑があったようですが、無罪を主張され、最初に罪を認めたのは、べつの自分だと仰っていた。そっかー、そういうふうに考えたり、言ったりするんだなあとしみじみ思った。

この世にはいろいろ悪事をはたらくひとたちがいるけど、本人にとっては、どんな感覚なんだろうなーと思う。自分みたいなあまっちょろい人間には想像できないような、強靭な神経があって、ここまではやっていいだろうという基準があるのだろうか。罪悪感とかあまりないのかな。

このように書くとずいぶんと自分が善人のようにみえるけど、どこに視点を置くかによるかもしれない。(つまり、自分だって、ある方面では全然善人ではない)。たとえば、自分は、仕事やお金の問題では、かなり常識的な振る舞いをしている。自分の利益のためだったり、自分の仕事にとって有益だったりしても、「悪いこと」には手を出さないし、距離をおくほうだと思う。

(ここでいう悪事っていうのはさー、たとえば、偉いひとにすりよって、コネクションで仕事もらうとか、キックバックを使うとか、そういうことね)。

が、ちょっと分野をずらして、恋愛関係においては、仁義なき戦いをするほうだったかもしれない。(かつての話ね)。既存のルールを信じてなかったし、(恋愛にルールなどないと思っていた)、婚姻制度も家族愛も嫌いだったので、その方面でルール違反することに、いたみも恐れも感じなかったかもしれない。他人からみたら、「ヒドイ奴」だったかもしれない。このように考えると、この分野では充分、自分は悪人であり、有罪であっただろう。たまたま、そのような裁きはすでに現代の日本ではなくなっていただけで、時代と場所が違えば、魔女裁判にかけられ、火あぶりにされていたかもしれないわけだ。

なので、他人様の悪事を、正面切ってとやかく言えない。きっとお金や仕事で悪事をはたらくひとって、そこでは、仁義なんてないのが当然だと思っているのだろうなあ。ルールを守って、ちまちま働いているひとを、ばっかみたい・・と思っているのだろうなあ。

そんなわけで、仕事方面では、地道にしかできないし、それ以外の方法をとれないので、「悪いひと」に出会うとかなりの確率で傷ついてしまいますね。まあ、もう、しようがないんだけど。

この世には、各分野で仁義なき戦いをしてるひとがいるんだよね、それぞれの必要というか事情に迫られて。

そんなわけで、悪事に関する考察でした。