山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

汚れた世界に咲く、たったひとつの花。

中村うさぎさんの「セックス放浪記」を読む。

面白かったなー。面白いというより、すごい。(あ、また、稚拙な表現が)。デリヘル嬢になってみたり、今度はウリセン少年、買ってるんだ。次々試すところもすごいけど、それを包み隠さず書いてしまうところもあっぱれでしょう。そして、いつでも自分をとことん客体化してるし。

もちろん、物書きが生業である以上、どこかで「仕事」意識あるかもしれないけど、それだけであそこまではいけまい。あそこまでやる勇気もすごいけど、書く勇気はもっとすごい。とりあえず、こっそりやるだけなら、できなくもないけどさ。

文章上は、自分の陥っている無限地獄を解析できるわけです。なぜ、こうなってしまうのかって。だからって、抜け出せるとは限らないんだろうけど。けれども、アル中やヤク中のひとがとりあえず、「自分ははまってる」って自覚するところからしか、回復できないように、知ることはなんでもスタートなんだろうなあ。

自分も長い間、けっこうひどい闇にいたような気がするけど、抜け出せた感じがするのは、これもう、端的に年をとったからだと思う。要するに体力(=言ってみれば欲望)が減ったってことだ。神さまってやつはよくできているよな…と思っったことよ。

中村うさぎさんが、若くて見た目のいいホストなりウリセンに惚れてしまうのは、要するに、泥の川に咲く睡蓮みたいな…汚れきった世界を生きてきても、美しい魂を失わないでいる男に出会いたいからだ…と最後にはたどりつくんですけど、それは、結局、うさぎさん自身の理想的な自己イメージってことらしい。つまり、いろいろ悪いことしてきたけど、心は純粋なアタシって奴を、男に投影する。理想的な自分に出会いたいってことなのだ。そっか、なるほど。

汚れた世界を生きてきたけど、根は純な美少女といえば、典型的な文学モチーフだよね。文豪と言われるひとびとの作品にはこの手の女があふれている。「罪と罰」とかさ。自分を愛してくれるまっとうな家族を捨てて、ちょっときれいなキャバラクラ嬢に入れあげるミニ・ラスコリーニコフは、今だってわんさかいるし、それを小説に書いてるオヤジ作家もたくさんいるし、そして、そういう小説は売れるし、実行出来ないオヤジからは憧れの目で見つめられている。

だとすると、彼女の書いているのは、「罪と罰」なの?でもさ、いならぶ勘違いオヤジ作家より、自身の身の程を知り、自分をイタイ女と規定して、とことん正直に立ち向かう彼女はそこらのオヤジ作家にはマネはできまいと思う。オヤジの描く世界では、あくまで自分自身は愛されキャラだし、自分のたるんだお腹や、加齢臭や若い頃よりうまく機能しなくなったPのことは包み隠して、少女を神格化して描き続ける。そういう小説を読むと必ず、具合が悪くなって、壁にたたきつけたあと、捨てることにしてるけど、(古本屋に出すと流通しちゃうから)、うさぎさんが、このような体験記を書くのも、この手の「まちがったオヤジ幻想」への解答もある…とあって、胸のすく思いがした。

彼女は、だまされたホストを決して神格化しない。私が彼を育てたとも、彼の快感を開いてやったとも書かない。あっぱれ。

すると、すぐ反省。自分も嘘を書かないでいきたい。それをゆずったら、いったい、なんのためにやってるの?ってことになる。気をつけなければ。とほほ。