山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

Lの世界・シーズン3

「Lの世界」第3シーズンを見終わった。

これは、ロスに住むビアン(レズビアン)たちが主人公のドラマだけど、とても批評性に富んでいる。女性たちが主人公であるから、フェミニズム的視点が入るのは当然なんだけど、社会における弱者=女性、なかでもゲイであるビアンはより弱者となる。弱者だからこそ、この世界のゆがみが一層はっきり描ける。(いや、そんなわかりやすい社会糾弾ドラマじゃないけど)

例えば、モイラという女性は、女性であったとき、就職できなかった会社に、性転換して男性となり、あらためて面接を受けると、職を得ることができた。全く同じ経歴なのに、性別が男になっただけで、前に落ちた部署よりも優遇される。ちょっと驚いた。アメリカでもそうなんだ…。もちろん、ドラマだから強調しているかもしれない。しかもその企業は、IT企業である。差別のいかにも少なそうな、自由を売りにしているような企業なのに。

本当のところはどうなんだろう。

今って、日本でも「職場における性差別はなくなった」振りをする人が多い。女性でも、「女性だからって差別されたことない」とか「特に意識していない」というひとも増えた。フェミニスト的な立場に立つことを、今更ウザイという空気もある。「ちょっと昔のひとは、たいへんだったけど、私たちはそうでもない」ということを言いたがる女性って案外多い。ホントかな?と思う。だとしたら、幸福だと思うけど、それはどっかで「見ない」ようにしているか、「名誉男性」である自分を肯定しているようにも思える。

急にそんなことを考えてしまった。他にも、このドラマにはレズビアンとしてお葬式や結婚式を経験することで、それぞれの意味を浮き彫りにしようという試みがある。葬式では、「家族を持てなかったこと」を嘆かれ、結婚式では、ウエディングドレスを着ることの意味を問われる。ファッションや過激なからみのシーンと裏腹に底に流れているテーマはとても重い。

俎上にあがるのは、女性差別だけじゃない。アフリカ系アメリカ人のレズビアンは、性転換しようとする女性に言う。「中身が男性ってなに?」と。「私は黒人だけど、中身が白人だからそれに合うように外見を白人にする…といっているのと同じじゃない?」と問う。レベルが違うかもしれない。性別と人種を一緒にするのは無理があるかもしれない。でも、そう斬り込むことで、性別とはなにか…という問いかけを強くすることができる。

もうひとつ挑戦するのが、年齢差別。登場人物のひとり(女性)に「56歳だからって、熱烈な恋はもうできないなんて考えないことにしたの」と言わせたり、50歳の女性が妊娠したりする。エンタメ性に富んだストーリー展開の向こうに、制作者の意図が見える。

性差別やめて、人種差別やめて、年齢差別やめて…と。

考え込む。かわいくて素直な恋愛の話もいいけど、やっぱりテーマは深く、遠く持ちたいね。
特に社会派ってわけじゃないけど、批評性のあるものを作りたいです。

金曜の夜(っていうかもう土曜の朝だけど)、二回目の更新です。