山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

普通じゃない人々。

仕事始めの日。

ちょっと昨日の宴会の余韻が気分的にも、食料的にも残っていたので、気分転換のため、映画「普通の人々」を見た。1980年のアカデミー賞作品。監督はロバート・レッドフォード。実は、これまで見たことなかったんです。

年末に、若手俳優の青年と会った時、彼はひきこもって映画ばかり見ている…と言っていた。「最近見たDVDで一番よかったのなに?」と尋ねたら、答えが「普通の人々」だったのである。彼が生まれる前に撮られた作品であるけど、(青年は21歳であった)、そんな青年が一番!というのを見たくなったのだ。

で、鑑賞。まず、「アメリカン・ビューティー」との相似にびっくりした。ほとんど同じようなカット割りのシーンがあった。まず、内容をざっと説明すると、シカゴにある裕福な弁護士一家が主人公。長男がヨットの事故で亡くなり、そのせいで次男が自殺未遂をしたことから、家族はばらばらに。それでも父は家族を建て直そうとし、母親は何事もなかったようにふるまい、次男はどんどん追い詰められていく。この一家の夕食風景のシーンがまるで、「アメリカン・ビューティー」と同じだった。

で、さっき調べたら、「アメリカン・ビューティー」の監督のサム・メンデスは「普通の人々」を意識して、同じクローゼットを使ったりいろいろしているらしい。やっぱり。自分的には、この系譜でいくと、次が黒沢清の「東京ソナタ」になると思うけれども。崩壊を運命づけられている家族のお話。(「東京ソナタ」は再生するけど…)。

「普通の人々」では母親が家を出ることで、父と息子は、新しい生き方に向き合えるようになる…ように見える。母親は同じ価値観のまま、別の場所でゴルフでもしながら生きていくのだろう。とてもまじめで静かな映画だった。これを見ていて気になったのは、「母親」の描き方についてだった。「アメリカン・ビューティー」でもそうだけど、アメリカ映画の母親は、日本映画の母親とずいぶんと違う。なにが一番ちがうかっていうと、いわゆる「母性本能」とか「母親らしさ」がないのだ。

日本映画って、「母は強し」とか「母の愛は海より深い」というような描き方をするものが多い。どんなに多くのひとが見捨てても、「母親」だけは子供を見捨てない。母とは盲信的に子供を愛するもの…という描き方がとても多いのだ。が、これって、実はかなり日本に特徴的なことであって、別に世界中の母親が子供に夢中というわけではないのだと思う。

この、「母は強し」幻想って、日本でどれほど強いか。女性でも信じているひとは結構いる。冷静に考えると「おかしい」はずなんだけど、考えないで「実感」してしまうようだ。なので、日本のエンタメなのかで、母性本能を発揮しない作品を描くのは結構難しい。納得されにくいからね。殺人事件とかも、母が子供を愛するあまり…というのだと、納得されることが多いように思う。へんだと思うけどね。

もちろん、溺愛する母親というのも存在するだろうし、溺愛する父親もいるだろう。それだけのことだと思う。「女だから…」とか「母だから…」ということはなく、「私はたまたま…でした」ってだけのことだよなー。個人に帰する問題のはず。

で、再び「普通の人々」に話を戻すと、制作は80年だから、今から29年前の作品だ。けれども、テーマはちっとも古びてないなーと思った。自殺未遂をした次男の手首にはリストカットの後がたくさんある。彼は精神科医のもとへカウンセリングに行くのだけど、これってそのまま現代に置き換えても全然いける内容だった。ということは、時代は変わっても、家族の抱える本質の問題はちっとも変わっていないということだろうか。それともそれは永遠のテーマなんだろうか。

いーや。そもそも、これらの映画に出てくる「家族」とは近代の家族であって、永遠でもなんでもないのだ。歴史的にみれば、ごく最近(ここ40年くらいの期間で)表れた、特殊な家族形態なのだ。もっと昔は、3世代くらい同居していただろうし、もっともっと昔は、通い婚だったり…といろいろだったはず。父は仕事をし、母は家事をし、子供は学校へ行く。みたいな一見典型的と見える家族形態なんて、歴史のないヤワな形態でしかない。

「普通の人々」では、母親が家を出るという結末を迎える。離婚なのかどうかわからないけど、たぶん、元に戻ることはないだろう。「アメリカン・ビューティー」の場合は、父親は殺される。娘はニューヨークへ、男と旅立つ。たぶん、母親はひとりでも不動産業などをしながら生きていく。やはり、家族はばらばらになるのである。

が、この「ばらばら」という言葉だけど、そもそも最初から、「普通の人々」も「アメリカン・ビューティー」も、家族はばらばらだったのだ。内面的に齟齬を抱えていたのだ。それが物理的にもばらばらになる。あるいは、体面だけの家族を解散し、それぞれが個として生きる…ことを選ぶのである。

家族とはばらばらになることを運命づけられたもの…ということを繰り返し描いているのかもしれない。そうしないと、「家族はいつまでも一緒」的なイデオロギーにつぶされてしまう人々が浮かばれないからかもしれない。「家族はいつまでも一緒」イデオロギーのほうが、圧倒的多数だからね。おお、こわ。

ということで、仕事始めの日、「普通の人々」を見ました。ちょうど自分が扱っているテーマともぴったりなので、とても勉強になりました。もちろん、自分も手を変え品を変え、「家族とは崩壊するもの」「恋愛に永遠はない」などを繰り返し描いているのであった。とほほ。