山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ココ・アヴァン・シャネル」

仕事のあと、渋谷で、映画「ココ・アヴァン・シャネル」を見て来ました。

シャネルという女性の人生については、若い頃、娼婦だったとか、著名人と浮き名を飛ばしたとか…漠然とした知識しか持っていませんでした。ところが、ここのところ、この映画の宣伝のためか、女性誌でシャネルについて取り上げているものが多く、それらを読むにつけ、シャネルに対する印象が変わってきました。

ひとつのきっかけはどこかの映画評で読んだ、この映画は、「女性の生き方」ものであり、「働く女性」「自立した女性」の先駆けとして、シャネルをとらえたものだ…というもので、それが気になり、出かけたわけです。少し前にもシャネルを描いた映画があったはずだし、このほかにも「クララ・シューマン」とか歴史を賑わせた女性著名人ものの映画というのは結構あるのですが、どーも、「芸術家のミューズ」や「ファムファタール(運命の女」」として描くものにはあまり興味が持てず、なぜなら、そういう女性たちというのは、特別の美貌をもち、その美貌故に(多少の才能はあったにせよ)、芸術家たちから好まれて、派手な人生を送りました…という物語展開が多いからでした。いわゆる、フツウのひとではない。多くの男性の好む、ちょっとやっかいだけど、ほっておけない美人…というヒロインです。そういうヒロインには、興味が持てない。なぜなら、自分と重なるところが全くないからでありました…笑。

が、どうやらこの映画は、そういうとらえ方ではないと知り、見たわけです。監督は、アンヌ・フォンテーヌという女性です。ここでやっぱりと言いたくなります。シャネルという女性の描き方に、多くの男性が陥りがちな、セクシーなヒロインという要素がほとんどないんですね。セックスのシーンもあるけど、それも、とりたてて官能的ではない。わりと淡々と撮っているように思いました。そして、なにより、シャネルを、孤児院で育ち、飲み屋で歌手になり、貴族の愛人になったけど、「働きたい」「自分で稼ぎたい」と言いだす「新しい女性」としてとらえ直し、その頃貴族の女性たちが着ていた、花やレースのいっぱいついた、コルセットで締め上げた服から、自由に振る舞える服を作ることで、女性を解放したひととして描いている点に、好感を持ちました。

世間の常識に負けず、自分を持ち、男に頼るばかりではなく、自力で人生を切り開く女性…というのに、昔から弱いんです…笑。これはもう、掛け値なしにね。まあ、正直、自分もそうありたいと思って生きてきたわけですから…。

ところで、この映画のなかでは、シャネルが娼婦だったとは描かれていません。私の間違った記憶かもしれません。ただ、この映画にシャネルという会社が協力していることはエンドロールを見ればわかりますから、シャネルサイドにとって、不利益なことは描かない、描けないと考えるのが普通だと思います。確か、シャネルは存命中は自分の過去について、あまり語りたがらず、孤児だったことなどを隠していた…との記憶もありますが、現在は、孤児に生まれて、愛人から出発したのに成功した…という描き方のほうがより人気を集めやすいという状況と判断があると思います。

ひとりのひとの人生というのは、描く側の意図によって、どのようにも描けたりするものです。それは、自分も、テレビ番組で、いろんなひとを描くとき、「どの面を大きく取り上げるか」という選択に迫られているのでよくわかります。もちろん、まったくの嘘はいけませんが、事実をつなぎ合わせて、どう解釈するかは、制作者側の意図によって変わってしまうのは事実です。

そして、本人だって、自分がどういうひとであったか…なんてまとめきれないものだと思います。もちろん、「こう描かれたい」という希望はあるかもしれませんが。

余談ですが、かつて自分について、短いドキュメントを作ってくれたテレビがありました。それを見たとき、一番びっくりしたのは自分でした。「へえ、わたしってこういうひとなんだ」と。それは自分が考えていることとずいぶん違うように見えましたが、作る側にとっては、私はそのようなひとに見えたのでしょう。(まあ、そういう風に作りたかったんでしょう…と同業者として、理解はできましたけどね…)。

さて、映画「シャネル」の話に戻ると、これはもう、はっきり、女性の自立の映画でした。最初にシャネルを愛人にする貴族の男は、「日本のゲイシャのようになれ」みたいなことを言います。『日本のゲイシャは男のためにならなんでもするんだぞ」みたいなことを言う。すると、シャネルは答える。「奴隷みたいね」。そして、「わたしは奴隷にはならない」と言う。

日本のゲイシャが奴隷だったかどうかは知りませんが、この監督が、あきらかに、当時の女性は、男の奴隷のような存在であった…ととらえ、描こうとしている意図ははっきりわかります。これ、やっぱり、女の監督じゃないと出てこないセリフだと思う。男性はもう少し、ゲイシャや当時の女性に夢を持つでしょう。自分たちが女性に要求していることが、「奴隷」扱いである…なんて想像できず、愛ゆえの行為くらいにしか思えないんじゃないかしら。

シャネルは、そんな奴隷のような人生はまっぴらだと思い、得意だった裁縫の技術とデザインのセンスで、成功を目指していくのでした。その途中で、心から愛せるひととも出会うけれど、彼はやはり、孤児を妻に選ばず、悲しい別れが待っている。その後、シャネルが一度も結婚しなかったことや、彼とでかけた海辺で見た、ボーダーのデザインを取り入れたり、イギリス人であったその男が好んだポロシャツの素材…ジャージーをスーツの素材として取り入れるなど、彼との出会いがシャネルのデザインに生かされていることを案じしつつ、映画は終わります。

非常に淡々と、ひとりの女性を描いているところがとても良かったです。いたずらにドラマチックにしないところが。

そして、帰り道、しみじみ、考えた。本当に、女性に関して、世界はこの100年でずいぶん変わったんだなー自分たちはほんとうに自由になったなあ、ありがたいなあと思いました。にも関わらず、最近では、「専業主婦」に憧れる高学歴の女性も増えたと聞くと、100年かかって、手に入れたのに、なんだかな…と思ったりもします。確かに、クレオパトラなら、ウインクひとつで世界を動かせたのに、今の女性は自分で働いて、動かなくっちゃならくなった…なんで、そんな自由を手放したの?という冗談も皮肉とも言える言葉をどこかで聞いたと思いますが、しかし、クレオパトラになれる女性は、何万人にひとりで、残りの女性は、奴隷状態であったのだ…という点を忘れるわけにはいかないと思います。

……シャネルのファッションが好き…というモチーフで見に来た女性はこの映画をどう見るのかなあと別の興味も持ちました。お金持ちの妻か愛人になって、シャネル始め、ブランドものに囲まれて暮らせたら、超幸せ…と考えているファッショニスタは、ブランドの創始者が、元祖自立した女性と知ってどう思うんだろう。

単純な自分は、シャネルの服、買おうかなあと思っちゃいましたもん。だって、それがひとりで生きていくと決めた女性が作った服だと知ったから…。自分は自分で、別の方向で、おめでたいんですけどね…笑。