山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

お祭りにもどっていく。

今日は、代々木公園で、ジャマイカフェスティバルみたいなものをやっていたようだ。ワンラブジャマイカ?

参加した女子が、あまりの混雑ぶりに途中で、避難した…みたいなことを言っていた。

…とこれは、枕詞です。

例えば、音楽業界では、CDは売れないけど、今日のライブのようなイベントには、かなりの集客があるという。また、映画も、テレビドラマの続編の映画など、話題作りをしておくと、次々と観客が押し寄せることになっている。「映画」そのものを見に来るというより、「映画」は、もはやイベントで、参加して、それについて話すことが目的になっていたりする。つまり、そのとき、映画は、作品ではなく、「ネタ」になる。

まあ、こういう状態をさして、カーニバル化する社会とか、呼んだりするのだろう(よく知りません。ちがってたら、ごめん)。あるいは、「祭り」。映画も音楽も、みんな、祭りになってしまっていると。

映画を作る側からしたら、ネタにされるのは、ごめんだ…というひともいる。最近、試写会で、ツイッターをしながら映画を見る…という試みもあり、危機感を持つひとも少なくないようだ。

が。

結局、それって、先祖返りではないか…と思ったりする。

「名曲探偵アマデウス」を担当するようになってから、よくクラシック音楽を聴く。それも、ipodで。オーケストラの場合、これほど、ipodで聴くのにむいていないものはない。低音の小節でボリュームをフルにしてしまうと、フォルティッシモのときなど、耳が割れるような思いをする。つくづく、オーケストラというのは、イヤホンで聴くには向いてないなと思う。

というか、そもそも、音楽って、CDやレコードで聴く、録音再生されたものを聴くのが最初ではなかったはず。目の前に楽器を手にした演奏者がいて、それを「見ながら」聴くものだったはず。「アマデウス」がきっかけで知りあったクラシック音楽家の方も、オーケストラは「見る」ことも大切なんだ…と仰っていた。

そう考えてみると、CDは売れないけど、ライブは混む…というのは、悪くないんじゃないか。CD売れないというのは、マーケットの問題というか、要するに、作る側の儲けの問題であって、音楽的な本質の問題ではないように思う。

そもそも、一枚のCDが100万枚とか売れていたほうが、異常だったんじゃないか。CDを作る側にしてみたら、プリントするだけだから、枚数が増えるほど、ぼろもうけだ。小説も100万部とか売れると、「お札を印刷しているようなもの」らしい。そんなふうに、売れていたこと事態がへんだったんじゃないか。

CDは持っていないけど、ライブに行って、仲間と集まって、わいわいしながら、音楽に身をゆだねる…という形は、ちっとも悪くないんじゃないか。

さて。映画。

映画は音楽ほど、簡単には語れない。自分も監督業をやっている身。できれば、暗闇で、大画面に集中して静かに見て欲しい。できれば、ポップコーンもなし。できれば、ドリンクも…。

でもさ。

一方で、こんな風に見て欲しいとまではやっぱり思えない。観客に見る姿勢まで強制したくない。

これまでもメインはテレビ番組を作ってきたので、テレビは、それはもう、ご飯を食べながらだったり、誰かと電話しながら見ている人だっているはずだ。それでも、お箸を持つ手が宙に浮くように、思わず、おしゃべりが止まるように、それだけ、ひきつけられるように、頑張って作ってきた。

だから。

ネタにされるのは、結局のところ、大いに結構なんじゃないかな。ネタというのは、それについて、誰かとしゃべりたくなるということだ。いいにつけ、悪いにつけ、なにか言いたくなることだ。そうやって、ネタにされるのは、作品冥利につきるはずだ。(もちろん、酷評ばかりだとめげるけど)。

なので、まるでお祭りのように、映画や音楽を見に行き、聞きに行き、そこで見たもの、聴いたものについて、わーわーおしゃべりする。それこそが、映画や音楽や、舞台もテレビも含めて、「見せ物」の本質じゃないだろうか。ついでに、小説もいれておこう。読んだあと、誰かに語りたくなる…というのは、書き手冥利に尽きる。

芸術と名付けられ、正座して鑑賞しないといけない高い場所へ、作品を持って行かなくていいような気がする。最初の芸術…最初の音楽、物語はもっと素朴な場所から始まっていたはず。

それは最初は、「見せ物」だったはず。

なぜか、今ごろになって、その基本のかたちに戻っていっているんじゃないだろうか。なぜかはわからないけど、それが悪いことだとはどうしても思えないのだった。

最近、流行の読書会というのも、同じなんじゃないかな。誰かとなにかを共有したいという思い。芸術の箱に入ってしまったものたちを、身近な場所に引き戻したいという思い。そういう空気が、広がっているような気がする。

自分の小説も映画も、たくさんのひとに語られたいのだ。味わってもらいたいのだ。それを待っているような気がする。

(もちろん、だからって、静かな映画館でわざと騒いでほしいと言っているわけじゃないので、よろしくです)。