山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「プレシャス」

渋谷で映画「プレシャス」を見て来ました。

うー正直言って、この映画の感想書くの、難しい。難しいというか、書き方をちょっと意識してしまう。書きようによっては、なんだか、凡庸なことを言ってしまいそうで。いや、それが言いたいことなら、凡庸だっていいんだけど。

前提から書くべきか。ほとんど無名のヒロインと監督でありながら、数々の賞を受賞し、アカデミー賞だっていくつもとっている作品です。

主人公は、ニューヨークのハーレムに暮らす、16歳の黒人の少女。二人目の子供を妊娠中で、その父親は、彼女の父親でもある。父親からレイプされていたのだ。なのに、母親からも虐待を受け、満足に読み書きもできず、とても太っている。16歳にして、人生、とことん、崖っぷちである。彼女の名前が、「プレシャス」。プレシャスとは「愛しい、貴い」という意味があるけど、実際の彼女を愛してくれるひとは誰もいない。

そんなプレシャスが、妊娠を理由に学校から追い出され、「代替学校」(=each one teach one)という、フリースクールみたいなところに通い始める。この学校で、彼女を優しく指導する先生との出会い、読み書きを身につけることによって、主人公は本当に「プレシャス」な存在に変わっていくのだ。

(以下、一応、ネタばれあり)。

たいへん悲惨な人生だけど、物語としては、それほど、びっくりするような筋書きではない。実父の子供を二人も産む…というのは、そうそうないとはいえ、想像もできないことではない。近親相姦は、衝撃的ではあるけれども、テーマとしてはすでに結構、使い古されている。このヒロインを助ける青年が現れて恋に落ちれば、携帯小説などになりそうな筋書きである。

だけど、この映画が、あまたある映画と一線を画しているのは、ヒロインの存在感によると思う。

同じあらすじでも、16歳のなんだか、かわいらしいアイドルみたいな少女が演じれば、まったく違った印象になったのではないか。日本で同じストーリーで、作るとしたら、絶対、「カワイイ子」が演じるだろう。

以前、「ジャーマン+雨」の横浜聡子監督に聞いたことがあるけど、あの作品の主人公は、もっとぶさいくなひとを望んでいたのだという。主人公は、「ゴリラーマン」に似ているという設定の少女なのだ。実際、演じた女優さんは、そんなにぶさいくなひとではない。かわいらしいひとである。なかなか見つからず、彼女に演じてもらったと聞いた。(作品はとてもすばらしいです)。ぶさいくなひとをヒロインに…という心意気はすごいと思った。なぜなら、美人をヒロインにもってこないというのは、勇気ある選択になるからだ。

これまでの「映画」は、ヒロインというのは、美人じゃないと演じられなかったのだ。美人では狭すぎるというなら、美人もしくは、それなりにかわいらしい外見のひと。たとえ、シナリオの設定が、「もてない女」であっても、実際、演じるのは、美しい女優さんになる。私などは、「こんなにキレイだったら、もてないはずないじゃん」と不信感を抱きながら見るけれど。途中で、「このひとは、美人だけど、美人じゃないと思ってみよう」というジャンプが必要になる。

男性が主人公の場合は、ぶさいくでも愛嬌があれば、充分、アリだけど、女性の場合は、かなり難しい。

(「モンスター」のように、美形であるシャリーズ・セロンがあえて、醜く変貌して演じた映画はあるけど)。

いつだって、女性は、「美」を求められてきたのだ。

「プレシャス」の話に戻ります。主人公を演じたのは、けっしてキレイとは言えない女優さんである。(これが映画、初出演)。この映画の成功は、主人公に、彼女を採用したことにつきると思う。それによって、いろんな状況がとことん、リアルになっていく。彼女がいじめられたり、罵声を浴びせかけられるシーンのいかにリアルなことか。

彼女を採用した監督の勇気に新しい時代の始まりを感じた。「美人じゃないとヒロインになれない」というルールを破ったのだ。そして、それで、成功して見せた。

テレビや映画のキャスティングの現場にいると、キツいシーンに出会う。「もっと、若い子にしようよ」とか、「もっとキレイな子でいこうよ」という提案にたびたび出会うからだ。

これは、小説も実は同じ。美少女やたぐいまれなる美人を出しておくことが望まれる。主人公が男なら、彼は絶対、どこかで、びっくりするような美人もしくは美少女と出会うのだ。

そういう物語に、自分はずっと前から違和感を感じていた。類まれなる美人なんて、この世でほんのひとにぎりである。そんなひとの人生と、自分はまったく関係ない。そんなひとが、どうなろうと知ったこっちゃない。つまり、そういう物語のなかに、自分はいないってことになる。関係のない、夢物語だ。

でも、そんな時代は終わり。いや、全然まだ終わってないけど、美人じゃないひとの物語も随分と場所を広げてきたのだ。そして、最後の牙城、というか、頂点であるところの(映画は映像、つまり、見た目だから…)映画でも、全くキレイじゃないひとが、ヒロインになった。

そのことが、とことん、新しい、挑戦的な作品なのであった。

そして、この時、「美しい」ってなんだ?って気分になるのだ。自分が漠然と感じている美しさなんて、西洋的な美意識と、日本の美意識が、混じったようなものだ。それが世界基準ではあると思いこんでいるけど、本当なのか?「太っている」のは、そんなに本当に、「醜い」のだろうか。プレシャスは本当に美しくないのか。

自分の感じる美しさに揺さぶりをかけてくるところも、画期的でした。

あーなんか、うまく書けなかった。

自分も自分の映画のなかで、「小島小鳥」というブスの女子高生を描いている。(安藤サクラちゃんに演じてもらったけど、彼女は、実際は、きれいなひとなのだ。メイクとかでがんばった)。どうしても、どうしても、ブスの話を作りたかったから。

もうきれいなヒトばっかりのお話にうんざりなのだった。