山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

大阪幼児遺棄事件、その2

昨日は、大阪の幼児遺棄事件のことを書いたら、アクセス数が伸びた。やっぱり、関心事のようだ。

ツイッターやブログでも何人かが発言していて、比較的自分と似たような感想を持つひとと、その反対に、育児放棄した母親を責めるひとに別れている。

自分に似た感想を持つひとたちのブログ。

 CHIKIRINさん…人気のブロガー
 
 内藤みかさん…小説家

CHIKIRINさんは、かなり客観的に、内藤さんは、自分の体験を元に語っている。けど、どちらも、20代のシングルマザーはたいへん…というスタンスは同じだと思う。わたしもまったくそう思う。

一方で、批判的な方もいて、「同情の範囲を超えている」とか「子供の気持ちで考えるべき」などが多いようだ。

自分は子供を持たなかったんだけど、その大きな理由のひとつに、もし、子供を産んだら、子供を殺すことになるか、子供に殺されるかするだろう…という予感があったからである。まともな子育てをする自信がなかった。

20代、30代は、生活がめちゃくちゃで、とってもじゃないけど、これ以上、面倒を背負い込むことなどできないと思ったのだ。まわりの子育て中の友人を見て、「自分にはムリ」と判断したわけだが、それほど、たいへんに見えた。

子供を産んで育てる…ということは、自分のやりたいことをほとんど諦める…ってことを意味した。少なくともわたしには。まわりには、両立させようとしているひともいたけど、彼女たちは、自分の数倍、優秀で人間的にもできたひとたちだったし、協力を仰げるひとがまわりにいた。

自分は愚かであるし、能力も人並み以下であるにも関わらず、分不相応な欲望を抱いていた。テレビの仕事がしたかったし、小説を書きたかったし、映画も撮りたかった。恋愛もたくさんしたかった。だいたい、結婚すらうまくいかないのであるから、子供をもつことなど、絶対ムリであった。

だから、追い詰められてホストクラブにはまってしまうような状況はよくわかる。自分も追い詰められると、なにかに依存して、マイナスの行為と知りながらも抜け出せなくなる、精神的傾向を持っているので、想像ができる。

そのような心情を、「まじめなわたしの不まじめな愛情」という小説に書いている。おかしい、まずい、やばい、最低であると自覚しながらも、抜け出せなくなってしまうのだ。

もちろん、それは「病気なんだから、許してくれ。罪を問わずにいてくれ」と言っているのではない。法律も世間も彼女を裁くだろう。

けど、「抜けだそうと思っても抜け出せない」苦しみを想像できるひとがいてもいいじゃないか…と思う。

この世にはまともなひと、立派なひとがたくさんいる。そういうひとたちは、困難にあっても、自力でなんとか抜け出すことができる。「だから、できるはず」と言う。

でもさ、わかっていても、どーしても抜けられない時っていうのがある。自分はたまたま、今、生きているが、それは、単にラッキーだったに過ぎない。ギリギリの淵まで行っても、運命のように助ける手が差し伸べられたりしてきたのだ。

だから、だれも殺さずに来た。(殺されずにも)。

友人に鬱病の末に自殺したひとがいる。彼は優秀な演出家であったけど、小さなトラブルが原因で、深い闇のなかへ落ちていき、その結果、自ら死を選んだ。

時々、彼のことを思う。自分もいつでも同じ道を辿りそうになるからだ。わたしが、今、生きているのは、ほんの少しの差、ほんの少しの幸運によって生かされているだけだと思う。

だから、いつでも、おのれの弱さに負けそうなギリギリのひとの気持ちを想像できるひとでいたい。