山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「ノルウエイの森」

今日は、映画「ノルウエイの森」を見ました。久しぶりにがっつり感想を書きたいと思います。

それはこの映画をすごく好き、あるいは、傑作と思ったから…というわけではないです。ただ、初めて、「ノルウエイの森」のテーマがわかった…と思えたからでした。

そのテーマを監督が意図的に描いているのかどうかはともかく、少なくとも、原作のテーマはもしかしてこうだったんじゃないか、あるいは、意図しなくても、この映画が見せてしまったものは、こういうことだったのではないか…ということに気付いたからです。

それは、端的に言えば、この映画のテーマは、“ロマンチックラブ・イデオロギーの犠牲者”についてのお話だ、ということです。

ロマンチックラブイデオロギーとは、平たく言えば、恋愛至上主義、あるいは、この世には、たったひとりの、心から愛せるひとがいて、そのひとと結ばれたら、幸せになれる…という物語を信じることです。

恋愛の対象が神様になる…ということ。真に愛するひとが見つかれば、そのひとを信じて生きていけばOK、という考え方です。まるで、宗教みたいに。

愛こそすべて、愛があれば大丈夫…という考え方ですね。

だからこそ、この映画の舞台は、1967年なんです。60年代後半でなければならなかった。

なぜなら、60年代後半に、このロマンチックラブイデオロギーが日本で広まったからです。…といっても、大学生などの、中流階級以上の家庭の子どもたちにおいてだと思いますが。

それまでの日本では、見合いで結婚するひとがほとんどで、恋愛とは、特別なひとのする、特別なものだったのです。恋愛なんてしなくても、充分やっていけた。あるいは、食べる、生きるってことのほうが大変で、恋愛どころではなかったのかもしれません。

けれども、60年代の後半くらいから、恋愛は大衆化します。戦争が終わって20年以上が過ぎて、余力がでてきた。とりあえず、食べる、生きるだけだったのが、「考えること」「恋すること」が生まれてくる。

この映画のなかで、松山ケンイチ演じるワタナベくんが、大学の校内を歩くシーンがたびたび出てきます。その度に、背景で、学生がデモをやっているのが映ります。

ワタナベは学生運動に興味を持たない、いわゆるノンポリです。でも、時代背景として、当時は、政治の季節でもあったわけです。共産主義や社会主義イデオロギーを信じる学生も多かった。

社会主義イデオロギーもまた、当時のひとつの流行でした。

そういう意味で、この映画って、「浅間山荘事件」などをテーマにした映画と構造は似ているかもしれない…とも思いました。

ひとつの政治的イデオロギーを信じて、信じることを極端に実行した結果、破綻して、殺人まで起こってしまう…という部分が似ていると思いました。「浅間山荘事件」は、政治的イデオロギーの犠牲者のお話です。

つまり、60年代後半って、それまでの日本に登場したことのなかった考え方(イデオロギー)が広まって、それにはまるひとがたくさんいた…ってことです。

話を映画に戻します。

この映画のなかで、ロマンチックラブイデオロギーを強く信じていたのは、まず、キズキ(ワタナベの高校の時の同級生)とその恋人の直子でした。ふたりは幼なじみでもあるけれども、強く愛し合っていた。だから、二人は最強、なにがあっても大丈夫…のはずだった。だって、「愛こそすべて」ですからね。

けれども、そううまくはいかない。

それはのちに、直子がワタナベに告白することで発覚しますが、直子とキズキは、性的に結ばれようとしたのに、「できなかった」んです。愛する二人なら、当然、すばらしい性愛の世界が待っているはずなのに、直子は濡れなかった。

たぶん、これが原因で、キズキは自殺してしまう。なにしろ、多感な10代ですから、最愛のひとと「できない」だけでも、充分、「死」に値したんだと思います。

(原作は発売当時に読んだのですが、正直、ほとんど覚えてないです。なので、あくまで、映画に基づいて書いています。原作にキズキの自殺の理由が書いてあるかもしれませんが)。

残された直子は、傷を抱きながらもなんとか生きていこうとする。そして、キズキの親友だったワタナベと再会し、つきあうようになる。そして、直子の20歳の誕生日、直子とワタナベはセックスする。

直子は、最愛の相手だったキズキとはできなかったのに、ワタナベとはできてしまう。映画のセリフをそのまま書くと、「濡れた」。

この体験によって、直子は精神を病んでいく。なぜなら、愛するひととはできなかったのに、たいして愛していないワタナベとはできてしまったから。

これは、ロマンチックラブイデオロギーの信者にとっては、信者失格の「ありえないこと」である。直子は生身の人間であるワタナベよりも、ロマンチックラブイデオロギーを選んだんですね。

敬虔な宗教の信者が、教会に籠もるように、直子もまた、ワタナベから離れ、地方の療養施設に入院してしまう。そこで、時間をかけて、回復しようとするけれど、結果的には死を選ぶことになる。

直子は、映画のなかで、何度も「わたしのこと好き?」とワタナベに尋ねる。これは一見、よくある恋人同士のセリフに見えるけれど、直子にとっては、人生でもっとも重大な質問なんですね。

つまり、私という神を信じるか?ってことです。直子にとって、恋愛対象とは神と同じものですから、セックスしてしまったワタナベを「神」にすえることで、自分の信念を貫こうとした。

けど、ワタナベは、どうも、自分ほど、この宗教を信じていないように思える。

それは「当たり」なんですね。なぜなら、ワタナベは、東京で、好きでもない女の子と適当に寝たりしているからです。このことからも、ワタナベは、ロマンチックラブ・イデオロギーの信者じゃないことがわかります。

敬虔な信者である直子は、それを察して、ワタナベから離れていく。直子もまた自殺しますが、これもキズキと同じく、殉死です。ロマンチックラブイデオロギーのために命を絶ったのです。

さて、この映画のなかには、他にもロマンチックラブの信者がでてきます。ワタナベの先輩、永沢という男の恋人のハツミさんです。ハツミさんは、永沢が他の女子と遊んでいることを知りながらも、彼ひとりを愛し続けます。

そして、それが叶わなくなったとき、やはり、自殺してしまうんですね。彼女も殉死です。

永沢という男は、ロマンチックラブの信者ではなく、それまでにもよくいたタイプの、複数の女性と性的関係も結べる、特に「恋愛」が必要じゃない人物です。彼こそが、それまでの日本では、「フツウ」の男だったんだと思います。

ハツミの悲劇は、ひとりだけロマンチックラブの信者だったことです。ロマンチックラブはふたりが同時に信じないと成立しない宗教ですから。

他にももうひとり、ロマンチックラブの信奉者がいます。それは、ワタナベの新しい恋人、緑です。なぜなら、緑もまた、恋愛と性愛をきっちり結びつけていて、ワタナベ以外の男とつきあっているときは、ワタナベとは寝ないんですね。ギリギリのセリフをはいたり、誘うような動作はしますけど、「つきあう」と決めないと結ばれない。

ワタナベはロマンチックラブの信者ではないのに、信者にかぎりなく近い感情も持つことのできる、たぶん、新しいタイプだったんでしょう。(今の時代から見るとふつうですが)。

だから、ワタナベと緑はその後の時代を生きぬくことができるんですね。

あるいは、ワタナベとは、「ロマンチックラブ」ではない、独自のイデオロギーを見つけることのできたひとなのかもしれません。だからこそ、主人公たり得たのかもしれないです。

ところで、もうひとり、ロマンチックラブから卒業して、生き抜くことのできたひとがいます。

直子の療養所の友人、レイコさんです。レイコさんもまた、ロマンチックラブに破れて、精神を病んでしまったひとです。しかし、直子との関係の破綻(直子が自殺した)ことによって、ロマンチックラブから卒業するんですね。

なぜ、卒業したかわかるかといえば、レイコさんはワタナベと寝るからです。自ら、ワタナベに「私と寝て」と頼むからです。愛していないワタナベと寝ることで、それまで信じてきたロマンチックラブを捨てるというわけです。

ワタナベと寝たことで、ロマンチックラブを裏切ったと思って、自殺する直子とは逆の方向に進むわけです。

こうやってみていくと、この「ノルウエイの森」という映画が、こういう構造を持ったお話だと見ることができます。

1)ロマンチックラブの信奉者で、そのために殉死するひと
   キズキ、直子、ハツミ

2)ロマンチックラブの信奉者だったけど、生き抜くひと
   緑、レイコ

3)ロマンチックラブの観察者として、生き抜くひと
   ワタナベ

なので、これは、ワタナベというひとりの観察者が、ロマンチックラブの犠牲者について、語る物語なんですね。彼は、最初から最後まで、ロマンチックラブという宗教を信じることができなかったんです。

でもそれは、正しい。その時代を席巻したひとつのイデオロギーに溺れるのではなく、観察者として振る舞うことこそ、小説の、あ、映画の、語り手たり得るからです。

だからこそ、この映画の時代設定は、1967年でなければならなかったんです。恋愛ものだからといって、今の時代に設定しなおすことは不可能だったと思います。

同時代には、政治的なイデオロギーにはまって、セクト化し、殉死していったひとたちもいます。構造は同じです。

だから、この映画は、「ひとつのイデオロギーを強く信じることの危うさ」に関するお話なんですね。

そんなものを信じなくても、目の前の小さな対象をその場限りで大切にしていく…

そういうことこそ大事なんだよ…というその後、広がる考え方を先取りしていたわけです。

…というようなことを、「ノルウエイの森」を見ながら考えました。

なぜ、これらの構造に気付いたかといえば、自分もまた、ロマンチックラブを強く信じた時代があったからです。そして、それを乗り越えた経験があるので、この構造がよくわかるんですね。

まあ、今でもたくさん作られている「純愛映画」などは、相変わらず、ロマンチックラブイデオロギーの信者たちが主人公ですが、作者はそのイデオロギーの破綻には目をつぶり、相変わらず、この宗教が健在であるように見せかけています。

すでに破綻が約束されているにもかかわらず、そこは見せずに、たとえば、「不治の病」とか「不慮の事故」とか「外部の敵」を想定することで、ロマンチックラブという宗教そのものの破綻については目を向けないようにしています。

自分たちの正義を語るために、異教徒を攻撃するようなものでしょうか。

このあたりの話になってくると、蛇足というか、話がズレるので、これくらいにします。

「ノルウエイの森」論、いかがでしたでしょうか。

だからこそ、この映画、今の時代では爆発的なヒットはしなかったんだと思います。いわゆる、純愛映画好きのひとにとっては、ロマンチックラブイデオロギーの破綻に関する作品は見たくないはずですから。

けれども、ある時期、村上春樹が圧倒的な人気で迎えられたのは、それまでの日本の文学、映画などの作品が、強烈な思想(考え方、恋愛、などなど)と殉死するひとを称える物語であったからだと思います。

そんなにはまってどうするのさ…というワタナベのスタンスに多くのひとは惹かれ、文芸評論家からは嫌われたんだなーということもわかったように思います。

…というわけで、長くなりました。以上です。