今日は、ツイッター上で話題の映画「キック・アス」を見て来た。
原作がコミックなこと、ヒーローものらしいこと、さらに、美少女戦士のようなものが出てくることなどから、ちょっと不安だった。
もしかして、自分、結構キライな方向なんじゃないかと思って。
実際、ツイッター上で、映画好きの女性が、「キック・アス、大キライ」と表明していたし、ヒーローものや、美少女の殺し屋が出てくるものって、ジェンダーバイヤスがかかってそうで、やばい場合が多い。
が。
なんか、全部杞憂だった。映画が始まって、主人公のさえない高校生の独白が始まったくらいから、「大丈夫、好きな映画」だと思った。
スーパーマンやバットマンの時代から時間が過ぎて、今や、ヒーローがヒーローのままでいられる時代は終わってしまった。正義を信じて、敵と戦うといっても、こっちの正義がどこまでも正義であるかも怪しいし、正義のためとはいえ、同じ人間をばしばし殺すのに、罪悪感を覚えないのは難しい。
そこで、登場してくるのが、苦悩するヒーローで、日本では、エヴァンゲリオンのシンジくんになるわけだ。ヒーローになりたくないし、悪と闘いたくないヒーローの誕生である。これはホントに新鮮だったし、だから爆発的な人気を得たのだと思う。
しかし、「キック・アス」の主人公、さえない高校生のデイブは、苦悩するヒーローではない。ヒーローに憧れつつも、もてないし、勉強もできないし、体力もないしで、そもそも、ヒーローになる素質がないのだ。
けれども、彼はヒーローに憧れて、インターネットでヒーローが着るようなコスチュームを手に入れる。これがきっかけで、ヒーロードラマに巻き込まれていく。
この映画の一番の魅力は、よく書き込まれた細部じゃないだろうか。主人公の持つ悩みの具体性やセリフのひとつひとつ、そして、過去のヒーローものへのオマージュや、それだけではなく、随所に、時代を浮き彫りにする批評性のあるセリフや設定がある。
これらの細部の積み重ねが、あり得ない話なのに、妙にリアリティを持って迫ってくるのだ。デイブが片思いをする同級生の女子の、ゲイにむけるシンパシーや、マフィアの息子の妙な孤独とか、正義感と狂気が同時に存在するニコラス・ケイジ演じる復讐の鬼とか、外見は少女でありながら、少女的な嗜好を全否定してみせるヒットガールとか、とにかく、小気味いいくらい、批評性に富んでいる。
思わず、にやけちゃうくらい。
だから、おおざっぱにストーリーをつかんで語っても、語り尽くせないような気がする。単純化を許さない、独特の連なりがあるのだ。
自分は正直、「レオン」という映画が嫌いだった。元祖、美少女と殺し屋の物語である。「レオン」が嫌いで「キック・アス」が好きなのはなぜなんだろうと今、自分に問いけてみるけど、「レオン」忘れちゃったからなー。ただ、「レオン」は、見終わったあと、「少女幻想」に支配されたものを見せられて、げんなりしたのだ。
じゃあ、「キック・アス」はどうなんだ。11歳の最強の少女、ミンディは美少女であるし、日本の女子高生みたいなコスプレだし、外見は少女幻想に充分支えられている。
けど、なんかちがう。
で、考えてみると、この映画って、ジェンダーバイヤスがかかってないんだよね、全体的に。おたくも女子高校生も少女ミンディも、あるがままっぽい。
あ、ジェンダーバイアスって意味がわからない方もいると思うので、(「ノルウエイの森」について、ロマンチックラブという概念を基本に書いたら、そもそも、「ロマンチックラブ」って言葉を知らない…と言われたので、説明しないとね)。
ジェンダーっていうは、社会的な性別…みたいなことですね。で、バイアスは偏見だから、ジェンダーバイアスっていうのは、性別に対する社会的偏見ってことです。
たとえば、こういうことかな。
男は仕事をするのが当たり前で、女は家で家事をするのが当然…みたいなものから、地図を読めない女、ひとの話を聞かない男…みたいに、根拠もないのに、生物学的な性別だけを頼りに、男や女について決めつけて、語ろうとすること…、そういうふうに自分は理解してます。…説明終わり。
でもって、「キック・アス」に戻る。
これってジェンダーバイアスがないっていうより、ジェンダーバイアスにゆさぶりをかけてくるシーンが結構あるってこと。たとえば、デイブの憧れの女子は、「ゲイの親友がほしい」と考えていて、男子であるデイブには興味がないけど、ゲイかもしれないと知ったら、仲良くしてくる…とか。
こうやって、男、女、ゲイという区別にこだわることにゆさぶりをかけ、笑ってみせるのだ。
この「笑ってみせる」態度は、この映画のすべてに通底している。妻の復讐のためにマフィアと対峙する男にしても、悲しみをたたえた復讐の鬼ではなくて、コミックの登場人物のようにどこか、おかしい。復讐に燃える態度が、真剣すぎて、おかしいのだ。コスプレまでしているし。
この「おかしさ」こそが批評性なんじゃないか。
…と小難しく解釈しなくても、ハラハラドキドキしながら、ストーリーにのっかって、引き込まれて見ることができる。かなり残酷な殺人シーンもあるんだけど、ギリギリのところでかわしているというか、飛ばしているというか。そこにも、匂わない程度の批評性が込められている。
監督の演出が細部にまで行き届いているような気がするのだ。だから、おとぎ話のようであるのに、妙に説得力がある。
制作はブラッド・ピットの会社だ。「食べて、祈って、恋をして」とかも制作している。
やるな-、ブラピ。
すっかり魅了されて、サントラのCDまで買ってしまったことよ。