クリストファー・ノーラン監督祭りをやっているので(勝手に、自分で)、今日は、映画「バットマン・ビギンズ」を見ました。(@dvd)。
自分は、バットマンやスーパーマンなどのヒーローものにあまり関心がなく、なので、熱心な観客じゃなかったんだけど、「ダークナイト」あたりから、ちゃんと見るべき…と思い始めた。
っていうのは、ヒーローものは、成り立ちからして、「悪と闘う」ことが使命だけど、最近では、「悪ってなに?」「正義ってなに?」という疑問をもたずに描くことは難しいと思うからだ。
ちょっと昔なら、正義対悪の構造は、描きやすかったと思う。「東側のスパイ」とか「中東のテロリスト」というステレオタイプの悪を描いても、物語を成立させることができたのだから。
けど。
もう、そんな単純なものではないことは、子供でも(たぶん)知っているんじゃないかな。
エジプトの革命だって、退陣したムバラク大統領は親米だったわけだから、アメリカの民主主義から見たら、仲間だったはずでしょ。
でも、実際は、エジプトの民衆にとっては、善ではなかった。この革命がどうなるかわからないけど、事態はそうそう単純じゃない。
そういう時代にあって、悪とはなにかってことをクリストファー・ノーラン監督は、つきつけているのだと思う。
昨日見た、最初の「following」にしても、結局のところ、悪とは、人間の心が生むひとつの幻のようなもの…として描いているように思う。
「バッドマン・ビギンズ」は、バットマンがどうしてバットマンになったかというお話である。
空を飛べるマントとか、高性能の車とか、兵器なみの武器とか、そういったものはどこで手に入れたのか…。
この問いに対して、この監督は、とってもリアルな答えを用意している。そこに飛躍がないんだよね。
単純にバットマンとは、お金持ちの息子なのだ。それも飛びきりの。
しかも、悪者に両親を目の前で殺される…という経験もしている。すごい遺産を持ちつつ、その決定権を持つ親はなく、自由に使えるお金と信頼できる部下が最初から用意されている。
そうじゃないと、バットマン=スーパーヒーローになんてなれっこない。
ここらへんは、「キック・アス」と一緒で、妙にリアリティがある。
ハイテクノロジィの時代なら、お金さえあれば、スーパーヒーローの装備を集めることは可能だろう。そういうリアリティが妙に効いているのね。
それと、女性の描き方。80年代くらいまでは、ヒーローものに出てくるヒロインは、「助けられるのを待つだけのか弱い美女」だったけど、今は、れっきとした仕事を持ち、志もある、強い女性になっている。(見た目が美しいのは前と同じだけど)
そういう風にして、ヒーローものも進化しているのだなーと思う。
で、タイトルに書いた「人の本性は行動にあらわれる」ってやつですが、これもまた、昨日見た「followin」から踏襲されている。
内面で何を考えているか…ではなくて、行動がすべてだということ。悪をなすひとが悪であり、正義をなすひとが正義である…という考え方。
映画ではこれが実は大切だよね。
小説なら、内面をいくらでも描けるけど、映画は行動で見せないと伝わらないからね。
納得のいくセリフだった。
あと、主人公のバットマンは両親を殺されたことから、正義の味方になろうと決心するわけですが、この「大切なものを亡くして、それが動機になる」ということが、最近、ようやくわかったような気がする。
多くの物語で、ひとが行動を起こす動機として、「大事なひとを亡くす」というのがあるけど、わかったようで、わかっていなかった。
また、犬の話になって恐縮だけど、自分は去年、ミニを亡くしてから、本当に変わってしまった。ようやく、「大切なものを亡くす」ことの意味がわかった気がする。
(これまでにも亡くしたものはあったけど、理不尽な亡くし方をしたのは、これが初めてだったからかもしれない。そして、ミニは自分にとって特別な存在だったから)。
おっと、映画の話なのに、ついそれてしまった。
そういうことを思い出しつつ、映画を見た。
さらに今日は、五反田団の演出家・前田司郎作「迷子」(NHK)と映画「トイ・ストーリー3」も見ました。
感想はまた後日。
久しぶりにゆっくりできた一日だった。