山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「キック・アス」が露呈させたヒーローの破綻

「ニキータ」や「レオン」はダメなのに、「キック・アス」に自分がしびれたわけはなんだろうとずっと考えていて、少しまとまったので、書きます。

というより、「ヒーロー」とはなにか?ってことをまず、考えないといけない。

映画やテレビドラマにおける、ヒーローモノの「ヒーロー」って、ストレートに言えば、正義のために悪と闘うひと、のことですよね。

その場合、敵は、地球を侵略してくる他の星からくる場合もあれば、同じ地球に住んでいる、悪の権化みたいな集団の場合もある。どちらも、わかりやすい「悪」として存在している。

でも、私たちはもう、すでに、知っている。絶対的な悪なんて、この世に存在しないことを。そして、自分たちの正義が本当に正義なのか、それすらも簡単には信じられないところに来ている…と少なくとも、私は思っている。

地球レベルの紛争を見ても、キリスト教対イスラム教だったり、資本主義対共産主義だったりしているけど、どっちが正しいということではないことくらい、冷静に考えたらわかることだ。

戦争って、「正義」対「悪」の闘いではなく、「こっちの正義」と「あっちの正義」の闘いだから。

なので、21世紀は、ヒーローは存在しにくくなってしまったのだ。「悪と闘う正義の味方」というのは、残念ながら、「子どもの妄想」でしかない。

そのことを、実は、ヒーローモノである「キックアス」ははからずも露呈させてしまっているのだ。

ヒーローに憧れる主人公のデイブは、高校生。いわば、子どもと大人の間の年齢だ。なので、まだ、ヒーローは大人の世界では存在できない…という現実をわかっていない。ただ、ストレートに、子どもの無心さで、正義のために闘うヒーローに憧れている。

そのこと自体は、悪いことじゃないと思う。町で恐喝してくる不良に、恐喝や盗みをやめろ!というのは、正しい行いだと思う。けど、コトはそんなに簡単じゃないのだ。

例えば、キックアスのなかには、良心の呵責なしにひとをばんばん殺すやくざ(マフィア?)が出てくる。もちろん、殺人は悪いことだ。だけど、一歩下がって考えてみる。なんでこのマフィアたちは、こうして、殺人をするようになったのだろうか。

彼らは紛争地帯から逃げてきた難民出身かもしれない。恐るべき格差社会のなかで、極貧の家庭に生まれた子供だったのかもしれない。激しい宗教弾圧を受けた果てに良心をこなごなにされたひとたちかもしれない。

…とまあ、「悪」というのは、単独で発生するわけじゃないということを、歴史が、哲学が、文学が、精神分析が、プロファイルが…とにかく、20世紀の叡智がいろんな形で証明してくれてるよね。

(「キックアス」ではそんなところまでは描いてないけどね)。

一方で、正義の側のヒーローもまた、「正義」の根拠が脆弱だってことを、きちんと描いているのだ。

まず、マフィアと対峙するビッグダディ。

(注・ビッグダディはヒーローにふさわしく、強くて、マフィアを殺しまくる)。

彼ですら、ストレートに「正義の味方」とは思えないように描かれている。妻を殺されて復讐心に燃えるのはわかるけど、暴力に対して、暴力で仕返しするのでは戦争は終わらない。「法律」でさばこうよって、決めたはずじゃなかったのか。彼は狂気のひとなのではないか…という疑問を抱かせる演出がきちんと施されている。

そして、ヒーローに憧れるデイブは憧れるだけで、無力だし、みっともない。彼が動くことで、巻き込まれて死ぬひともでてくる。ダメダメである。でも、そこがいいんだよね。

おのれの無力さを知った後は、小さな幸せを求めて、おとなしく生きていこうと決意する姿など、リアルだし、とても好感がもてる。彼の姿こそ、ヒーローものに憧れつつ、早めに諦めて、おとなしく生きることを選ぶ、現代の若いひとたちの等身大の姿なんだと思う。

そして、もうひとり。ヒットガール。わずか11歳にして、ナイフの使い手で、迷いなく敵を殺すことのできる殺人マシーンである。でも、憎めない。

なぜか。

彼女がかわいいからか?正義のためだからか?母の復讐のためだからか?

ちがう。

彼女を憎めないのは、彼女が「子ども」だからだ。

善悪の彼岸について、想像することのできない、子どもだからである。ヒットガールは父の教える正義を疑うことなく、まっすぐに育てられた戦士だからだ。その卓越した技に感動すら覚えるけど、彼女がそうしてクールにしていられるのは、大人になるまでだ。

時間がもう少し過ぎたら、ヒットガールは自分がしてきたことを顧みて、ものすごく苦しむんじゃないか。父親を憎むかもしれない。そこまでは当然描かれてないけど、彼女の無心の強さに快哉と叫びつつも、かすかな不安を覚えるのだ、心ある観客は。彼女の将来…彼女の自我が目覚めたときの苦悩……を予感して、私は勝手に切なくなった。

そして、彼女の将来が、ただの正義の味方ではいられないことを、「彼女に惚れた。彼女が成長するまで、童貞守る」と発言する男子を登場させることで、ヒットガールがセクシーな存在として期待されてしまっていることの悲劇、あるいは喜劇を描いて見せている。とても小さなセリフだけど、こういうリアルなセリフの積み重ねが、映画をゆたかにさせている。

ヒーローはもやは、子どもの妄想のなかにしか存在できない。でも、正義を実行したいと思う気持ちはなくならない。それはきっといいことだ、困難だとしても。そういう子どもの妄想と現実との闘いがこの映画を支えているのだ。

…とまた、小難しい解釈をしてしまったけど、これらの哲学が通底していることを気づかせないままに、爽快なヒーローモノのように描くテクニックにほれぼれするんだ。音楽も衣装も美術もね。

なので、単純な作品と思うなかれ…とわたしはゆいたい。