山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

帰りたい、ふるさとって…?

京都疎開6日目。

ほぼ一週間、京都に滞在していると、やはり、日常にもどりたくなる。

はて、自分にとっての日常ってなんだろう…。

都内にいても、仕事以外ではほとんど外出せず、日がな家にいて、パソコンの前か、DVDを見ているか、本を読んでいるか、である。

あとは、映画や舞台を見に行くくらい。あんまり友達にも会わないし、友達、いないし…。

というわけで、日常に戻るために、今日は、京都シネマに「堀川中立売」を見に行ってきた。

京都シネマ……いい感じの映画館だった。広さと雰囲気はユーロスペースみたいだけど、入っているビルや近所のたたずまいは、もっとおしゃれっぽいというか。

一階はインテリアショップ・アクタスだし、文化の香りのする場所だった。

いいなー。こういう映画館にかけてもらえるような映画撮りたいです~。

で、鑑賞した映画「堀川中立売」はとても奇妙な映画だった。よってたつ世界観は結構、好みだけれども、なんとも、型破りの演出に、目を見張る。監督は、非常に変わったひとなんじゃないかと思いました。

映画の舞台は京都であり、安倍晴明なる昔の(平安時代の?)陰陽師が、ホームレスとヒモを手下につかって、悪(?)と闘うお話。

今の時代、悪と闘える資格があるのは、資本主義からもっとも離れた場所にいる、ホームレスとヒモってことのようだ。「敵」とは、消費者金融業者をはじめとする、資本家たちのようでした。

ものすごく、「お金持ち」を敵視してるんですよね。

でも、出てくるひとたちは、貧乏なのに、みんな、楽しそうだったけどね。

反権力、反資本家…。

そこに妙に、京都らしさを感じました。平安時代とつながっている…って部分もね。

普通に生活している場所に、「霊的な場所」がたくさんある…とか。京都っぽいと思いました。

ちがっていたら、すんません。

で、京都シネマで映画見て、烏丸から河原町まで歩いて、うろうろしていると、これはこれで、この地で暮らしていけるなーと(当たり前だけど)、思いました。

芝居の数が少ない、映画館が少ない…この2点に不満がありますが、そのほかは特に問題なく、仕事が見つかれば、なんの問題もないなーと。

果たして、自分は、『ふるさと』といういもの、特定の土地に、こだわりがあるのだろうかと、考えました。

自分は、新宿区の生まれで、人生の全部を東京で過ごしてきました。仕事で、海外、国内問わず、かなり旅行しましたけど、基本、住まいは都内でした。

じゃあ、東京に、郷愁ってあるのか。必ず、帰りたい場所なのか。

今は、仕事があるのと、家族のようなひとがいるので、東京に戻るわけですが、ほかの場所でも仕事があれば、そして、家族のようなひとも一緒に移動できるなら、案外、どこでもいいような気もしました。

こら! 京都みたいな場所なら、誰だってそういうよ…と言われたらそれまでですが。

しかし、自分にとって、「ふるさと」とは、ようするに、「ひと」ではないか…。

自分は法律的な意味の「家族」を持っておりませんが、大事にしている「ひと」はいます。以前は、大事にしている「犬」もいました。

自分にとって、「ふるさと」とは、なにかと問われたら、それは、「大事なひとや生き物のいる場所」だと思いました。

大事なひとと犬と暮らせる場所であれば、どこでも大丈夫のように思いました。(仕事があるかどうかは、難しい問題ですが、雇ってもらえたら、なんでもいいような気もします。)

日本語の通じる場所なら、なんとかなると思うし。(言語はやはり、重要ですから…。)

今の時期、たくさんの方が、大事な場所やひとをなくされて…つまり、ふるさとをなくされているようなので、不謹慎かと思いましたが、自分にとってのふるさととはなにかを、問うてみました。

漁師さんや農家の方たちは、海や畑といった、「そこでなくてはならない場所」と結びついていらっしゃるから、そう、簡単に「場所」を離れることはできないのだろうと思うと、心苦しいですが。

もうひとつ…。

じゃ、自分にとって、「大切なひと」がいなかった場合、すでに失ってしまった場合、自分はどこをふるさととするのだろう。どこを帰りたい場所とするのだろう。

実際にそうなってみないとわからないけれど、そうなったら、与えられた場所、いることができた場所で、なんとか、やっていくような気もします。

大切なひとが見つけられなかったら、犬を見つける。犬は…すぐに、「大切な犬」になりますから。