山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「英国王のスピーチ」

今さらですが、「英国王のスピーチ」を見て来ました。

よくできた小品という感じで、まじめに作っているのか、きつーいジョークで作っているのか、判断の難しいところでした。

ふざけているわけじゃないんだよね?

しかし、こういう作品がアカデミー賞をとってしまう…というのは、どうなんだろう。

アカデミーってもっと大作めいたものか、そうでなければ、特出したもの、目新しいものがとるもの…という思い…というか願いがあったので、戸惑いました。

いや、好きな感じの作品ですが、いくら主役が英国王とはいえ、「吃音」だけがテーマって、あまりにささやかではないかと。

その一点で、2時間見せちゃう腕力には脱帽ですけど…。

とはいえ、この時期、見ると別の意味で考えさせられました。

つまり、「スピーチのうまいヘタがどれほど重要か」ってことです。

今、日本は未曾有の災害にあい、毎日のように政府や東電のひとの記者会見があります。あれもひとつのスピーチですよね?

で、スピーチに本来求められるのって、「事実」だったり、「真実」であるはずですよね。

「なにを言うか」が一番大切なはず。「どう言うか」じゃなくて。

でも、連日の記者会見を見てもわかるとおり、滑舌がよく、誠実に話しているように「見える」ひとが人気を集めたりする。ツイッター上でも枝野さんというひとは話題にされていた。

それに対して、あまりしゃべりがうまくない菅さんはぼろくそ言われてた。

自分はどっちの味方でもありませんが、「しゃべり方」だけで判断されちゃうのって、あんまりだと思ってみてました。

っていうか、危険でしょ。

俳優やアナウンサーなら、なめらかなしゃべりや、感じのいい雰囲気で評価され、人気を集めるのもいいと思うのですが、政治家がそういう面で評価されるのって、とても危険な感じがします。

でも、実際にそうなんだよね。

かのヒットラーは、スピーチの名手だったわけでしょう。

いえ、そんな危険な例を出す必要はないんですけど、「英国王のスピーチ」の時代というのは、ラジオなどマスメディアの力が飛躍的に伸びていく時代ですよね。

そこでは、「スピーチのうまさ」みたいなものも、王たるものに要求されるようになった。たぶん、外見も。

もはや、この映像の時代に、外見やしゃべり方のうまさで評価されるなんて、おかしい!といったところで、無力ですから、言わないですけど、この映画を見ていると、今ほど、「スピーチ」に代表される、「見た目の雰囲気」が重要視される時代はかつてなかったんだ…ってことを、再認識させられて、この映画のテーマって案外、そこにあったのではないか…と深読みしたくなるほどでした。

あと、もうひとつ気づいたのは、「エヴァンゲリオン」との相似形。

主人公の英国王って碇シンジくんですよね。

本当は闘いたくないのに、父親の命令で、エヴァンゲリオンに乗らないといけない。いやいやながら、周囲の応援があって、なんとかこなしていく…なんてところは、コリン・ファースと重なりました。

世界的に、「ぼく、重要な地位になんてつきたくないもん、闘いたくないもん」ってひとが増えているのかしら。
じゃないと、そうそう、こういう映画は作られまい。

もっと、好戦的な作品が主流になるはずだし。

そう考えると、こういった小品に見えるというか、ささいなことが重要なんだ…と描く映画が主流になっているというのは、あながち悪くないとは思います。

つまり、自分の嫌いな、マッチョで好戦的な人物が評価されなくなっている。以前、いろいろ書いた「キック・アス」の主人公も、ヒーローものであるのに、弱い男でした。

ちょっと前までは、映画の主人公ってマッチョな男が多かったのに…。

これは女性にも言えるかもね。昔は、「女らしい」というか、「か弱さ」「美しさ」「セクシーさ」こそが映画の主人公たり得たけど、最近、ようやく、そうでもない「女」が主役をはれることになりましたね。

これはいいことだ。

なるほど、そういう意味で、今を代表する優れた映画として、「英国王のスピーチ」はアカデミー賞たり得たのかもしれませんね。

自分で問いを立てて、自分で答えてしまいました。

レベル7の夜に。