山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「抱きたいカンケイ」

昨晩に引き続き、帰りの飛行機のなかで見た映画の感想です。

「抱きたいカンケイ」という邦題、もう少し、どうにかならなかったのかしら。

端的にいえば、「セフレ」というタイトルがもっとも内容を伝えているし、時代の空気をつかんだ言葉のように思うけれども、「セフレ」の「セ」がsexである以上、なんらかのセーブがあったんでしょう。

sexという言葉を使うとある種の人間を刺激して、観客動員につながりそうにみえるけど、たぶん、それよりも、「そんな嫌らしいモノは見たくない」あるいは、「そんな嫌らしいものを見たいと思われたくない」というひとの方が多くて、結局、動員にはつながらないと予測するのだろう。

デートムービーにするにはムリがあるもんね。男女どちらも、この映画に一緒に行こうよ…と言った時点で、「セフレ」という関係をアリとしているのではないか…と思われる可能性が出てくる。

なので、却下されたにちがいない。…(本当の事情は知りません)。

原題は、「No Strings Attached」で、直訳すると、届かないヒモ…みたいなことかしら。

手を伸ばそうとしても、なかなかつながることのできない関係…みたいな意味が籠もっているのか。

わかりません…想像の域です。

さて、以後、また、ネタばれありなので、自己責任でお願いします。

「抱きたいカンケイ」は、「ブラックスワン」の渾身の演技で輝いているナタリー・ポートマンの主演作。制作総指揮でもある。

つまり、ナタリーさん、こういうお話を作りたかったってことなんでしょうね。

ざっくり、ストーリーを確認しますと、主人公のエマは女医さん。忙しすぎて(?)、恋人をつくる暇がない。そんなとき、偶然であった幼なじみ(10代の時にキャンプで出会った)のアダムと勢いで寝てしまう。

デートしたり、つきあったりを面倒だと思っているエマは、単に会ってsexするだけの関係を提案する。アダムもこれに乗り、ふたりの「やるだけの関係」が始まる。

で、まあ、いろいろすれ違いや誤解があって、結局、ふたりはお互いの思いに気づき、普通の恋人になりました…というお話です。

わたくしは、脚本業もやっているので、スタート時点でこの結末は予想できるわけですね。体だけの関係で始まったけど、結局、愛にたどり着きました…これがテーマだろうと。

なぜなら、ハリウッドの映画は基本、「愛礼賛」「ハッピーエンド至上主義」であるから。それが現実を描いているかどうかより、多くのひとを安心させることをモットーにしている…と思える。

それはそれで、多くのひとを癒す産業としてアリだとは思う。けど、あまりに真実から遠く離れてしまわないかしら。

いえ、自分はこの企画は好きです。昨日の「ジュリエットからの手紙」より、リアリティがあるし、共感できるところもある。

けれども、結局、キレイゴトで終わってしまったように思う。

だって、なんで、「忙しい」だけで、「セフレ」しかいらないって思えるんだろう。もし、そうならその部分をしっかり描いてほしいと思うけど、足りてない。

そして、恋愛は面倒だから、「セフレ」だけでいいと思っているひとは、複数の相手を持つものじゃないかしら。この主人公、エマは、映画の間中、アダムとしか寝ません。

誰でもいいなら、別のひとでもいいはずなのに…。

これはアダムも同じ。だとすると、最初から、ふたりはちょっとは「好き」なわけで、それに気づけなかった物語になってしまう。

それもアリとは思うけど、恋愛に基づく関係より、気軽な関係のがいい…と思うヒトの心をもっと丁寧に描いてほしかった。実際にそう思っているひとは少なくないと思うし、その先になにがあるのかを見せてほしかった。

脚本としては、「ジュリエットからの手紙」の方がよくできている。伏線や小道具も効いている。

こちらはとっちらかっています。「寝るだけの関係」でいいというエマのキャラクターが定まっていない。なぜ、そういう考えにいたったかが全然説明されていないので、そういう設定をやらされている感が出てしまう。

まじめな女医さんで明るく楽しく、仕事も充実している雰囲気はできているけど、そんな彼女が、体だけの関係でいいと思ってしまうとしたら、それなりの理由がほしくないでしょうか。

愛情関係を拒否するだけの背景があるはず。それがないと彼女に感情移入できない。

単に、「本当は好きなのに、強がって、体だけでいいと言い張っている子供っぽいひと」に見えてしまう。

これでは、テーマが深まらない。

映画もジャーナリズムのひとつだから、物語を描くだけじゃなくて、そこに潜む、今という時代のなにか、真髄…みたいなものに触れてほしいと思う。

テーマは私のお気に入りだったので、そして、優秀でクールなナタリー・ポートマンが制作総指揮ということでかなり期待したけど、尻すぼみなラブコメディで終わってしまった。

たぶん、忙しさや自分自身の臆病さから、真剣な関係を作るのが苦手なひとが多い今、それについて、描きたかったのかしら…と思う。

真剣な関係をさけ、快楽だけを共有する関係に逃げ込むのもアリだと思うし、としたら、その部分を深めてほしかった。

だって必ずしも、愛ある関係がベストとは思えないから。

以前、漫画家の男性が、「自分は性欲はあるけど、愛情はないんですよね」と明るく言った。妻も子供もいるヒトです。同じ意見を他の男性からも聞いたことがある。

「男ってそういうもの」ということではなく、同じように思っている女性も結構いると思う。

なので、ひとは、愛情などなくても、関係を築くことができる。

そこそこの性欲を満たし、経済的に折り合えば、関係を作れる。結婚とか家族とかね。

そこに必ずしも、男女間の愛などなくても、おりあって生活していけるはず。それが、すさんだものとも思えない。

そして、もしかしたら、多くのひとにとっての家族や結婚とは「その程度のもの」でいいのではないか。そこに、強烈な愛情関係を求めることのほうが、幻想的だと思うのです。

だから、この映画の結末が、普通の恋愛にたどり着いてしまうとき、とても残念な気がしました。

もちろん、体の関係から始まって、愛に発展することはよくある話で、ちっともめずらしくないし、それはそれで、すばらしいと思うのだけど、その時、克服しないといけないことが実際にはもっとある。

セフレOKのひとは、過去に性体験が多くあるし、同時に複数のひととつきあいがちなので、それをどうやって乗り越えていくか…という問題もあるはず。

書いていて、とっちらかりましたけど、どうも消化不良な作品でした。

繰り返すけど、テーマはいいと思うのに、やりきれていないんだ。