山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

映画「マイバックページ」

本来の順番なら、今夜は、「ガリバー旅行記」についての感想のはずだったけど、「マイバックページ」を見てしまい、書きたくなったので、順番をとばします。

誰に頼まれたわけでもないので、自由だよね。

自分は、どうにも、あの60年代末から70年代にかけての、政治の季節というか、青春という言葉がもっとも似合うような、若者が世界を変えようとして闘った時代に、ある種の魅力を感じてしまう。

それは、自分が幼い頃、すでに、学生運動なるものがあり、子供心に「なんだか、かっこいいもの」という思いがあったからかもしれない。

私の育った街の近所には、早稲田と日本女子大と学習院があって、祖父が美術大学で教えていたので、わりかと、「大学生」に触れる機会が多かった。

漠然と、いつか大学生になったら、自分も学生運動とかやってみたいとその内容も知らずに、脳天気に憧れていた。

それと、基本的に、「世界を変える」みたいな、無謀な闘いをするものが好きなのでした。現状に満足して上手に生きるより、おかしいことはおかしいと言い続け、そのためにリスクを冒しても行動するモノたちが好きなのでした。

だから、チェ・ゲバラの話も韓国の軍事政権を倒した運動も、関心がある。共産主義という主義そのものに関心があるというより、「世界を変えようとする熱」にひかれる。

そういった基本的嗜好があるので、この時代を描いたモノを見るのが好き。その上、松山ケンイチと妻夫木聡だし、監督は、山下敦弘さんなので、期待は高まるというもの。

(ここから、ネタばれありです。いつものように自己責任でお願いします)。

始まってすぐに気づいたのは、画面の暗さだった。暗部がとても暗い。ここ数日、すみずみまで映し出されるハリウッド映画を見ていたので、この暗さに正直、驚いた。

ハリウッドムービー、あるいは、テレビドラマで育ったひとたちはついてこられるのか…って。余計なお世話だけど。

パンフレットを読んだら、あの時代の空気を出すために、16ミリフィルムで撮ったという。さすが。

あの時代の…といっても、子供だったので明確に知っているわけではないけど…バブルを経験する前の東京の雰囲気が、16ミリフィルムの作り出す陰影によって、よくでていた。

東京はまだ、暗かったんだ。

主人公は妻夫木さん演じる、新人の新聞記者。東大の安田講堂が陥落して、学生運動が力を失っていく頃、その熱をひきずりながら、運動側に身をおいて取材する記者を演じている。

その記者が、ある筋を通じて、松山ケンイチ演じる、謎の活動家と知りあう。ここから、二人の友情ともだましあいともいえる、独特の関係が生まれる。

まず、松山ケンイチさんの存在感が、はんぱない…と流行言葉で思わず、言ってしまう。

まるで、70年代に生きているひとのように見える。松山ケンイチであることを忘れさせる。このひとの空気づくりはほんとにすごい。

浅間山荘事件をテーマにした作品とちがって、こちらの映画は、派手な事件によって牽引されない。わかりやすい刺激も少ない。

途中で、事件は起こるが、それはふたりの関係を壊すことになる、結末へ向けてのきっかけであって、本筋じゃない。

なので、見る人によって、退屈に感じるかもしれない。

なんというか、テーマがとても、高尚なんだ。最近のメジャー映画では珍しく。

学生運動に思いを残しつつ、新聞社の社員という立場にもなじめないでいる記者と、革命を語りつつ、どこかねじれて、信頼できない、でも、めっぽう魅力的な男との感情のすれちがいのようなもの。

記者の目線から描かれる、この得体の知れない人物のふるまい。

もしかして、その頃にはこのような、「わけのわからない」人物が結構いたのかもしれない。みんなが熱に浮かされたように、革命とか世界を変えるとか言ってた時代の、どこへいくかわからない熱。

日本という国がたぶん、青春だった時代なのではないか。若くて、やたら力があって、正義感もあるけど、それをどこへむけていいかわからない。

言葉のもつイメージぴったりの、青春。

そういう熱がさ、確かにあったと思うし、そのどまんなかを生きたひとの、熱だけでなく、熱の裏側を描いているように感じた。

その空気感が好きだった。

結局のところ、謎の男の正体もいまひとつわからず、そもそも彼の望みとはなんだったのかも明かされない。つまり、映画のテーマはこの男の謎を解くことではなくなっている。

主人公の戸惑いというか自分の立ち位置の定めにくさを描くことが、テーマみたいに思える。それを照らし出す相手としての活動家(=松山ケンイチ)がいる。

もしかして、多くのノンポリ学生(学生運動にかかわらない学生)にとっては、この主人公のような思いをしたひとが多かったのではないか。

運動に憧れ、シンパシーも持ちつつも、決して主体になることなく、彼らのまわりをうろうろする。でも、内面では自分に問い続けるような…。

もちろん、この映画の主人公は結果的に、一線を越えてしまい。新聞社を去ることになるのだけれど、最後まで、彼は「革命なるもの」「活動家」などに、心底共感できなかったんじゃないか。

たぶんそれは正しくて、だからこそ、あの運動は失敗し、日本に革命は起こらなかったんだよね。そんなに身近にいるひとさえも説得することができなかったから。

そういう負けの空気も含めて、あの時代を描いていた。その姿勢は決して、裁こうとするものではなく、もうすこしやさしい視線による。

それが、今、30代の監督と脚本家の描く、あの時代への返答のような気がする。

彼らはやさしい。

革命には失敗したけど、日本の男子はやさしくなったんだよね。