昨日、1度書いたのだけど、どーも書ききれていないような、奥歯にものがはさまったような、食道の途中で小骨が留まっているような気がするので、つづき。
さっき、ふと気づいたのだけど、この映画はやっぱり、「アダルトビデオ」の監督と女優の間に起こったことなのだ…ということ。
どういうことかというと、アダルトビデオというのは、セックスを撮影する。しかも時に本番、つまり、本当にやっているところを撮影する。
セックスは普通、ひとに見せないものだし、ましてや撮らないものである。
けれども、AVの監督と女優さんというのは、それを撮ることを日常としているのだ。
つまり、普段は隠しているものを撮る…ということに慣れている…というか、抵抗がないというか、あるいは、なんでも「撮る」ということに挑戦しつづけているというか。
だから、なんというか、この映画が存在できたのではないかしら。
撮るということをとことんつきつめた先にあるもの。
撮ることがひとつの姿勢であること。
劇映画や通常のドキュメンタリーなどのテーマとか演出以前に、とにかく、「撮る」ことがすでに使命であること。
だから、セックスよりも撮ることが恐ろしいもの…にもカメラを向けることができる。
…できたのではないか。
もちろん、戦争や災害などで死をテーマに撮った作品はいろいろあると思う。それはそれで衝撃的なものもあるけど、でも、そこには、撮る側の個人的な思いよりも、事実を知らしめることの義務みたいなもので支えられているような気がする。
反戦とか、災害救助のためとか…。死を撮影することが免罪される大儀があると思う。
でも、この「監督失格」のなかの死は、反戦とかそういう大儀のためのものではない。真相を究明しようとか、そういうことでもない。
セックスを撮るのと、もしかしたら、同じ視線の先に、死があって、それを撮っているような気がする。
なんの演出も加えずに、あるがままに撮ること。
その強靭さにたじろぐ。
セックスにもカメラを向けたのだから、ここにも向ける…というような。
…うまく考えがまとまらない。でも、なんかずっと考えてしまう。
そういう作品なんだ。