山田あかねの一喜一憂日記

テレビディレクターをやりながら、小説書いてます。映画も撮りました。脚本なども書いてます。 本、買って下さいね。

ネタについて。

ちょっと風邪ひきちゅうなので、間違ったことを書くかもしれない。

…とあらかじめ、言い訳をしておいて、最近、考えたことを少々。

数日前、同じ業界のひとと話していたら、「自分の大事なひとの話は絶対にネタにしない」というひとがいた。

例えば、そのひととの大切なエピソードを仕事に使わない…という話だ。

私のまわりは、テレビや映画を作ったり、書いたり、本を書いたりするひとが多い。っていうか、ほとんどがそんな仕事のひとたちである。友達もみんな、そんな仕事。

で、このとき、出て来るのが、「ネタ」問題。

私もいくつか小説を書いているけど、事実をそのまんま書いたり、登場人物がまんま実在する場合は少ない。

(よく誤解を受ける。小説の主人公=わたしと思われること多々だけど、そんなはずはない)

が。

もちろん、これまでの人生で出会ったエピソードに触発されたり、エピソードのなかのエキスだけ取り出して使ったりはしている。そのことに、罪悪感があるかというと、う~ん、とことん考えた末、あんまりない。

人に迷惑をかけないようにしよう…とは思うけど、そのこと自体にそれほどの罪悪感はない。

が、その友人は言うのである。自分はしない…と。まあ、彼は、作家系の仕事ではないので、ちょっとレベルがちがうけれども。

しかし、そんな私であるけれどもハリウッドの演劇学校に行ったとき、ちょっと違和感を覚えたこともある。

それは、先日オンエアになった、柳楽優弥くんのハリウッド修行を取材したものだけど、その学校では、かの有名な「メソッド」という演技法を教えている。

メソッドのなかに「センスメモリー」というのがある。直訳すると「感情記憶」ということになる。

なにをするかというと、センスメモリーの授業では、ある特定のシチュエーションを演じるとき、それに近い、記憶をたよりにする。

例えば、こういうことだ。

自分の家で、好きなひとのために料理をしているシーンを演じろ、と言われる。この場合、「好きなひと」とは誰でもいい。恋人でも親でも子供でもいい。自分の大切なひとのために、料理をしていることを想像し、演じてみせる。

そこへ、その「好きなひと」から電話がくる。一生懸命料理を作ったのに、そのひとは来られなくなったという。その時、どんな気持ちになって、どんな行動をするか。

それを演じてみせるのである。

このような訓練を通じて、あらゆるシーンに対応できる演技力を身につけて行く。

とても合理的で整理された演技法だと思う。

演技のあと、車座になって教師を囲んで話し合う。「誰を想像して演じたか」「もうすぐ会えると思ったとき、どんな気分だったか」「突然、電話で、来ないとわかったとき、どんな気持ちになったか」

このような質問に答えていく。

別れた恋人を想像したひともいたし、離婚した親を思い出したひともいた。なかには泣き出すひともいた。

そのように、大切なひとに「冷たい目に合わされる」シーンをリアルに演じるために、過去の記憶を呼び覚まし、その時の感情をよみがえらせるのだ。

恋人に裏切られた瞬間を思い出せば、なるほど、リアルな芝居ができるかもしれない。

が、しかし、その時、ちょっとひっかかった。

それが「恋人との別れ」くらいならいいような気がするが、たとえば、大事なひとが亡くなるシーンだったらどうだろう。

大事なひとを亡くした芝居をリアルにするために、実際に誰かが亡くなったときのことを思い出し、そのひとのことを思って泣いたとしよう。

それはリアルな悲しみを演じられるだろう。

けど。

それでは、そのひとの死を、演技に利用していることにならないか。その悲しみを利用しているような気がして、悲しみが汚れてしまうような気がする。

このとき初めて、過去の経験をネタにすることの罪悪感を感じた。

いや、小説に書いたり、脚本に書くのはOKで、演じるのはダメだなんて、おかしい。小説に使っていいなら、演技に使ってたっていいはずだ。

そこでさらに考えがすすむ。

なにかを表現するってことは、結局は自分の経験のある部分をネタにすることである。悲しい体験、強烈な体験をしたひとが、繰り返しそれを描かずにはいられないように、創作活動にはそういう側面があるんじゃないかな。

そこまで考えて、同じく、リーストラスバーグ(ハリウッドの演劇学校)の教師、サシャがいっていたことを思い出した。

俳優とは、痛みを経験し、その痛みをさらけだす勇気のあるものだ…。

その時、毎回、「痛み」を感じながら演じること。

それは、書いたり、撮ったりもきっと同じなんだよね。

それを「ネタ」にするのはいやだ…というなら、仕方ない。ネタ…という言葉があまり適切じゃないけど、ひとから見ると「ネタ」かもしれないから、ネタのままでいうと、創作とは、ネタにし続けるような作業のことだ。

そういう深い業をもったものなのではないかと思った次第。

といいつつ、最近、そんなふうに向き合うような創作をしておりませんけれどもね。

でも、自分は、自分の犬を失った悲しみをそのままにしておくことができない。その悲しみをこれから先も何年にわたっても掘り下げていくような気がする。

来週から、ロンドンです。これも、ミニを亡くした悲しみのひとつ。