今日は日比谷で「人生はビギナーズ」を見ました。
昨日、クリストファー・プラマーがアカデミー助演男優賞をとったからではなく、前からひかれる題材であったからです。
プラマー演じる、75歳にして、ゲイであることをカミングアウトする父親…という設定に惹かれたからでした。
それまで普通に生きてきたのに、カミングアウトすることから始まる物語になぜか妙に惹かれます。
「明日のパスタはアルデンテ」もそうでした。これなど、兄弟二人ともゲイで…。
なぜ、そこにひかれるのか、自分でもわかりませんが、この設定にひかれて見に行きました。
夕方の日比谷シャンテは、アカデミー賞の影響かいなか、けっこうな混雑。それもかなり年配の人が多かった。
82歳のプラナーがアカデミー賞をとって、邦題は「人生はビギナーズ」で、キャッチフレーズは、「人生はいつでもやり直せる」というものですから、高齢のひとたちが、「元気」をもらおうと集まった感じがしました。
しかし、このような(ゲイとカミングアウト)内容ってわかっていたのかちょっと心配になりました。余計なお世話でしょうけれども。
前向きなキャッチコピーとは裏腹に、映画自体はとても静かで内省的で、そんなにハッピーなものではありません。
75歳でゲイとカミングアウトして、その後自由に男性を愛する父親はよいとして、44年間、彼と人生をともにした、母親は果たして幸せだったのか…苦い思いが残ります。
映画のなかでもしきりと、「不幸だったかもしれない母親像」が繰り返され、偽りの人生が招く、痛みを逆に描いているようにも見えました。
75歳にしてカムアウトした父親にしても、わずか4年でガンをわずらい、亡くなってしまうのだから、「いつでもやり直せる」かもしれないけど、時期によっては、やりなおせる時間はとても短い…ように思えてきます。
もちろん、語り手である、息子(ユアン・マクレガー)は、父と母の人生を鑑みて、「やり直すことが遅すぎないように」するわけですから、彼にとっては、遅いスタートながら、まだ、じゅうぶん間に合う気がして、少々、救われます。
それにしても、全篇を漂う、救いようのない、淡々とした、閉塞感。
過去と未来と主人公の描くイラストと時代背景を説明する写真などのコラージュが、新鮮で面白い一方で、なんだか、暗い気持ちにさせる。
ジャックラッセル(犬)のアーサーがしゃべったり、いろいろとてつもなくかわいいんだけど。
純文学のような映画…という表現は、ちがうかしら。
でも、なんだか、好きな作品でした。
見たことのない感じが好き。
人生の終わりにそれまで偽っていたことを告白する…という種類のものでは、古くは、「マジソン郡の橋」というのがあった。
人生の終わりというか、遺言を残すタイプだけど。
母親が亡くなり、彼女には父親とは別に愛するひとがいたことがわかり、子供たちが、その相手とゆかりの場所を探して旅する話でした。
この、大ベストセラー小説からして、あんまり好きじゃなかった。だってさー、そんなに好きなら、生きているうちにやり直せよ!と思うし、それができないなら、最後まで口をつぐむべきじゃないかしら…と思った。
残された子供たち、かわいそうじゃないかなーと。
もちろん、時代背景というのがあって、「人生はビギナーズ」にしても、ゲイとして生きるには、時代がまだ成熟していなかったってこともあると思う。
その苦みをかみしめる…からこそ、映画全体が、靄がかったような調子になるのかもしれない。
そう、なんだか、苦い映画だ。
そんな苦い人生には、ものわかりのいい犬が必要なんだよね…なんて思いながら。