山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

なんでドキュメンタリーを撮るんだろう。

今日は森達也監督の「311」と、砂田麻美監督の「エンディング・ノート」を見ました。

どちらもドキュメンタリー映画です。

これまでに見た、震災関係のドキュメンタリー映画は、岩井俊二監督の「friends after 311」と、我謝京子監督の「3.11ここに生きる」と合わせて三本目になります。

震災から1年がたって、それを題材にした作品がぼちぼち出始めた感じですね。

テレビでは震災直後から震災を取材したドキュメンタリーをずっと放送していたし、一年たってまた、特集も組まれて、震災関係のドキュメンタリーは見ようと思えばいつでも見られるくらい、日本では頻繁に作られていました。

けど、テレビと映画はやっぱりちがう。

テレビは、作り手の視線や意図、関わり方をあまり出さない。立ち位置がニュートラル。あるいは、ニュートラルであるようにつとめています。

「誰が作った」か、より、「何が映っているか」が重要です。

テーマもはっきりしている。だいたいが、現地の「ひと」にフォーカスするものです。

「映っているひと」が主人公。

これに対して、私の見たドキュメンタリー映画は、作り手の存在を強く感じさせるものでした。

つまり、「撮しているひと」が主人公。

岩井俊二さんの作品と森達也さんの作品は、両方とも監督自身が出演しているので、なおさら、その存在を強く感じました。

テレビのニュースや報道は「客観的」であろうとするけれど、この2本の映画は、「主観的」であることを隠さない。むしろ、主観的であろうとしています。

311の震災以後、カメラを持って現地に行く映像関係者は結構いました。とにかく撮りに行く、見に行く…という感じ。それについては、賛否があり、雑誌「映画芸術」では、そのことを特集したりしてました。

自分も一応、映像関係者ですが、カメラ持って現地へ行こうという気持ちにはなれず、たた、犬たちのことが心配だったので、被災犬を助ける手伝いに出かけたくらいでした。

森さんの映画は、特に映画にするつもりはなかったけど、「とにかく行ってみた」ところから始まる作品。

そのこともばらしながら、男4人が防護服を自前で作って、原発施設近くまで入ったり、津波の被害を受けた場所を転々とします。

これを撮ろう、これを見せよう…という意図より、なにかわからぬままに行ってみた記録のような感じです。だから、見ているわたしも一緒に被災地に出かけたような印象を受けました。あるがままを見ている感じ。

編集も時系列につなげてあり、意図的な編集…あえて、なにかを象徴させたり、説明を加えたりしていないので、なおさらそう感じました。

そして、見終わって、なぜか呆然としてしまい、いったい、これはなんだろう、なんでこういう作品があるのだろう、という思いにとりつかれました。

見終わった時は、その理由がわからなかったけれど、今、数時間たって、少しわかったような気がします。

その「呆然とした感じ」はまさに、森さんたちが被災地を訪れた時に感じた、「呆然とした感じ」なのだということ。まるで見て来たように、それを体験したように、私もまた、呆然としたんです。

映画ー作品に呆然とした、というより、大きな災害を見た、体験した結果、言葉を失い、うまいコメントを考え出せず、評価できず、ひたすら呆然とした…というわけです。

もちろん、編集による作品ですから、監督サイドは、観客を呆然とさせることを意図したのかもしれませんが、原発反対の問題提起でも、津波被害の一部が人災の可能性があったとする告発でもなく、ひたすら、カメラに映ったものを並べているように見えました。

それが、一番、ストレートにこの災害を伝える方法だと考えたのかもしれません。

少なくとも、私は追体験したように思え、安全な渋谷の映画館のなかで、呆然としていました。

その後、呆然としたまま、「エンディング・ノート」を見ました。

そして、なぜか、この映画を見ているうちに、ドキュメンタリーって何を撮るのだろうか…という問いに少しだけ、答えが見えた気がしました。

つまり、好きなものを撮る、撮りたいから撮る、のひとことに尽きるのではないかと。

「エンディング・ノート」はヒット作ですから、中身をご存知の方も多いと思いますが、ガンを宣告された父親をその最後の日まで娘である監督が撮り続けたものです。

これを見ていて感じたのは、監督がお父さんをとても好きで愛していて、撮りたかったんだなーということ。その存在なくしては、あり得ない映画です。他の誰でもない、家族、娘だからこそ撮り得た作品。

そう思いながら、再び、「311」のことを思い出したわけです。

そうか、つまり、「撮りたかった」んだなと。

この「撮りたい」「カメラを向けたい」という気持ち、これこそが、ドキュメンタリーを撮る理由ですね。

たどり着いてみたら、すごく当たり前のことかもしれないけど、時々わからなくなるわけです。

なんのために撮るのか、って。

「311」の中で、被災地で遺体が発見され、それを撮影していた森監督が、現場の人たちから、「撮るな」と言われるシーンがあります。

「なんのために撮るんだ」というようなことを現場のひとから投げかけられます。

「おもしろ半分に撮られて、ネットに写真とか流されたら、たまらない。遺族の気持ちも考えてくれ」と言われて、森監督は「そんな気持ちで撮るのではない」と必死で抗弁していました。

それはやっぱり、撮りたかったからなんだと思います。なぜかわからないにしろ、それを撮っておきたい、撮るべきだって思ったんだと思う。それがのちのちなにかの役に立つとか、作品になるとか、そういうこと以前に、撮っておきたい、と思ったんだと。

そのことを急に理解しました。

今は携帯で写真も動画も簡単に撮れるので、ひとはしょっちゅう写真を撮る。けど、なんで、そんなに撮るのだろう…って思うことあるよね。

自分は、仕事で必要な場合とツイッターやブログで見せるために撮ることもありますけど、たいてい、写真を撮りたくなるのは、「残したい」からですよね。

映像で残したい…という欲望。

かつて「カメラ=万年筆説」というのがあって、まるでラブレターを書くように、カメラをまわす…などと言いましたが、撮影するって、その対象を見るということ、それはその対象を愛するってことなのではないかと。

私事ですが、私がこれまでで一番たくさん撮ったのは、まぎれもなく、私の犬です。しょっちゅう犬を撮ってました。撮っても撮っても撮り足りないくらい撮る。好きだったから。

長くなりました。

何故撮るか…が少しだけわかりました。

これから、犬のドキュメンタリー映画を撮るのですが、なぜ、犬なんだろう、なぜ、撮るんだろうって自分への問いかけがはっきりして良かったです。

もうひとこと。

去年、被災犬を助けるボランティアに一緒に行った、自主映画の監督が、

「撮るってことは、その対象からなにかをもらうことだから」

って言ってたことをまた、思い出した。

彼は震災直後に現地に入ったけど、何も撮らなかった。撮れなかった、と言っていた。

撮ることはもらうことだから、今、このひとたちから、何ももらっちゃいけないと思ったからって。

その言葉はずっと私の心に残ってます。

…まとまらないけど、今日の感想はここまでです。