昨日は、岩井秀人作・演出の「霊感少女ヒドミ」を見ました。
諸般の事情で少し遅れて見たので、それがとても残念でした。
霊感を持った少女ヒドミが、霊や現実の人間とかかわるお話ですが、なんといっても、秀逸だったのは、映像とのコラボレーションでした。
舞台でも映像を使う作品はもはや普通になってきて、タイトル出したり、エンドロール出したりという、映画やテレビみたいな使い方から、もっと内容に深くからむも場合も多いのですが、この舞台での映像の使われ方がとても新鮮でした。
霊が現実界に現れてちょっとしたいたずらをするような時、映像と実際に舞台にいる役者とが、重なったり、増えたりして、それが面白かった。というか、よく出来てました。
映像を使っているのだけど、映像だけの世界では成立しないというか、舞台ならではの映像の使い方で、それが効果的でした。映像を使いこなしている、というか、映像もひとつの俳優みたいな感じになっていて。
技術として面白かったです。
物語については、始まりを見損ねたので、なんとも言いがたいですが、もっと見ていたかった…というか、物語の部分は少し食い足りない気さえしました。
ちょっと青春回想劇なども入って、それは映像でできてるんですけど、生身の人間がいる舞台より、映像のほうが感傷的に見えるのが不思議でした。
岩井秀人氏のナレーションというか、モノローグもよかったなー。
ここでも、失恋をきっかけに命を落とした男が出てきて、ホントに恋愛って一大事なんだよなーと今更ながらに思いました。
昨日の「終の信託」の続きですが、あの映画を見ていて、強く思ったのは、いくら信頼しているとはいえ、他人に自分の生死の決定権を託すのは、あまりに他人に荷が重いのではないか、いくら相手が医者でも、託したりしてはいけない…と思ってしまいました。
だって、すごく迷惑をかけることになるよね。
生死を託されて、その思いに忠実に動いた医師は、殺人罪に問われてしまうのですよ。それはあんまりだよね。
頼まれてそれを実行することでさえ、充分荷が重く、重いから故、「妻には頼めない」出来事であり、それを実行してもらった上に、罪まで着せてしまうとしたら、安易に他人に(この場合の他人とは、家族との対比の他人ではなく、自分以外の人間すべてを他人とする)そんな重いをことを頼んではいけないと思いました。
頼むなら、覚悟をもって、迷惑がかからないように、きちんと文書で残すとか第三者を入れるとかしないと、死んでいく自分はいいとしても、頼まれた人はたいへんなことに巻き込まれるよね。
…ということを今日になってもぐじゃぐじゃと考えてしまいました。
それにしても。その時は医師の判断に納得していたのに、あとから蒸し返す家族というのは、どのようなものだろうかと。自分にもその選択を行った責任があるだろうに。どこまで他人まかせなんだよ、とだんだん、腹さえたってきました。フィクションなのに。
というわけで、見終わった後にもずっと残り続ける強さのある作品というのはいいよなあ、と思いました。