山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

パンツのゴムが伸びても。

風邪で一日中寝ていたので、打海文三の「1972年のレイニーラウ」と角田光代の「太陽と毒グモ」を読む。2冊読み終わって、本を閉じると、なんだか、時代の断絶を感じた。

少し前に、高樹のぶ子の「透光の樹」を読んだけど、よく作家は男女別に語られることが多いけれども、男女差よりも世代差のほうが、実は色濃いんじゃないかと思えてきた。
その線引きが1960年頃にあるような。

端的にいうと、60年より前に生まれた作家は(男女関係なしに)、恋愛を非日常ととらえる傾向にあるように思う。出会って、恋をして、寝る。この過程になにかものすごい特別のものを感じ、それを描きたがる。自分達の恋愛の独自性にひどく自信をもち、それを美化したがる。小説の中で、女はいつも女らしく、わき毛をそったり、パンツのゴムが伸びていたりはしない。いや、しているとしても、そういう描写は避けられる。恋愛において、そのような日常性は排除されるのだ。

一方、60年以降に生まれた作家にとって、恋愛は日常の風景である。角田光代の「太陽と毒グモ」にでてくる男女は、設定そのままに男女をいれかえても、十分物語として、通用する。風呂に何日も入らない女も恋愛するし、盗品で日常生活をまわしていく女も恋をする。

世代によって物事を語るのは馬鹿げていると思うけど、もちろん、60年以降に生まれた作家の作品でも、昔ふうの恋愛を描いているものもあるけど。決定的な差を感じた。





言ってみれば、好みの問題かもしれないけど、女が女らしく見えるのは、その陰に女らしさ
を装うための時間が隠されているはずだ。「太陽と毒グモ」のなかに、薄茶色の髪がいつもきれいにカールしてあり、爪は桃色に塗られている、清潔な女子が出てくる。彼女を見て、彼女の彼氏は想像する。ペデキュアを塗るために、体を丸めて、足の爪を切る姿。化粧のために何時間も鏡に向かう姿。彼女がどんなにさり気なく、清潔にきれいにみえても、その陰
には努力がある。そういう努力を怠ると、すぐに女らしさは消滅する。

けれども、角田さんの書く恋愛小説は(恋愛小説とよぶならば、だが)、そういう女らしさや、初めてのセックスの盛り上がりを越えた後の男女の心の機微が描かれている。問題はそんなところにはないのよ、とでも言いたげだ。恋愛は日常であり、どこにでもころがっているささやかな関係のひとつにすぎない。自分達の恋を、特別とは思わない。誰もが経験する、当たり前の出来事しての恋愛がある。

どっちがいいとか悪いとかの問題ではなく、高熱に浮かされながらも、恋愛に対する態度の違いに、感慨ひとしおだった。けれども、もうすぐ、コップの水が突然溢れるように、恋愛を日常とする男女の方が、きっと数において勝るだろう。いったん、水があふれだしたら、元にはもどれない。

そんなとき、韓国のメロドラマみたいな、劇的な恋愛小説はどこへ行くんだろう。郷愁にさそわれた読者がいつまでも、ため息をつきながら、つきあってくれるのだろうか。それはそれでいいのかな。
熱があって、思考が混濁してうまくまとめられない。また、今度考えよう。