山田あかねの一喜一憂日記

心に引っかかるテーマは前後の見境なく取材に行きます。映画、テレビ、本つくってます。

「いつか読書する日」を見た。

映画「いつか読書する日」は知人の緒方明監督の作品である。最初は知り合いだから見に行こうと思った。そして、知り合いだからヒットすればいいなあと思っていた。が、今はちがう。知り合いかどうかなんて関係ない。緒方さんを知らなくても、私は今日、この映画を見たら、同じことを書いたと思う。もっと多くのひとが見ることを願うと思う。

つまり、すごくいい映画だったから。

映画を見ている間中、体に力が甦ってくるような気がした。何度も書いているけど、ここのところ、運命に呪われていて、不調だったんだけど、そんなことがどんどん晴れていった。自分の悩みなんか小さくて、いい映画があるなら、それだけで世界は意味があるってことを思い出した。そうだよ、そうだったんだ。

自分も創作活動を生き甲斐にしている身だ。そういう自分にとって、しょっちゅう忘れてしまう「生きる意味」を思い出させてくれるのが、いい映画、いい小説なんだ。
いやあ、緒方さん、よかったです。

主人公は地方の小さな町に暮らす50歳で独身の田中裕子演じる女性。朝はやくから牛乳配達をし、その後はスーパーでレジを打つ。地味な地味な、なにも起こりそうにない、つまりは、普通は映画やドラマの主人公になりにくい女性。(普通のおばさん、というような下品な言葉は使いたくない)

そんな彼女の日常がていねいに描かれて行く。彼女は一度も結婚したことがない。派手な恋愛経験もないようだ。いったい、なにが楽しくて、そんな毎日を送っているのだろう。気の早い観客はそう思うかもしれない。

けど、普通のひとの人生は案外、この主人公のような毎日の繰り返しである。とりたててドラマチックな出来事は起こらないけど、ささやかな楽しみを大切にして、生きて行くのだ。
けど、彼女は、やはり普通のひとではない。普通よりずっと強いひとだ、正しいひとだ。そしてそんな彼女だから、たった一度の恋愛を生涯に渡って大切にしているのだ。これを純愛なんて手あかのついた言葉で呼びたくない。

彼女が働くスーパーに、恋愛ばかりしている若い女性がいる。多くのドラマでは、この若い女性の恋愛を描き、田中裕子演じる中年の女性は、脇役として描かれる。しかし、視点を変えて脇役の位置からみると、事態がこんなにも違って見えるとは。 若い女性が主人公なら、彼女は、「恋に生きる女」「恋愛体質の女」となるだろう。だが、田中裕子の視点からみると、「男に頼りたいだけの女」「性欲に振り回されている女」「自分の不安を男でごまかしているだけの女」になる。そしてどうも、こっちのほうが真実ではないのかと思えてくる。

そう、この映画は恋愛に厳しい。うすっぺらな恋愛をそんなもん恋愛じゃないだろうと笑っているように見える。幼い子供を二人持つ母親が出てくる。子供は母親と父親の愛の結晶だろうか。いいや。そこにあるのは、恋愛以前の欲望の無惨ななれのはてである。

そんな皮肉がちりばめられながら、主人公の秘めた恋が再び始まる。これは恋愛に関する映画でもあるけど、人生の長さに関する映画でもあった。とにかく、唸らされた。

劇場は平日の昼間だというのに、8割かた観客で埋まっていた。しかも年齢層が高い。50代、60代のカップルが目立った。そうなんだよな、日本のドラマや映画は若者向けばかり。ほんとにこんなにも同世代の映画を見たがっているひとがいるんだよね。

作品そのものもよかったけど、その周囲でもいろんなことを考えさせられた。媚びてるばかりじゃだめだよなあ。

ほんとしっかりとしたよい映画でした。